第33話|共鳴のはじまり
装置の前に立つと、足が少し震えているのがわかった。
視線の先には、青年が静かにうなずいている。
「大丈夫。焦らなくていい。声は、待っていれば来るから」
けれど、私はまだ、自分の中に“その声”を持て余していた。
この胸の奥にある何か——名前のない感覚。
それを言葉にするなんて、ずっと許されてこなかった。
装置は静かに息を潜めている。
触れれば動き出しそうなほど、ぬくもりを帯びた機械。
だがそのぬくもりは、私に「あなたの声を待っている」とでも言うようだった。
私は息を吸い、小さく声を出してみた。
「……風が……流れて……」
続きが、出てこない。
言葉が、遠い。
口にしたとたんに、意味だけが剥き出しになってしまう。
私はすぐに口を閉じた。
そんなものを“詩”と呼んでいいとは思えなかった。
「昔から、言葉って選ばれるものだった」
私はつぶやいた。
「正しい語を選べ、空気を読め、意味を崩すな。
そんなふうに生きてきたから、いまさら自分の言葉なんて——」
青年は何も言わなかった。
ただ、私の迷いを遮ることなく、そこにいた。
不思議と、それが救いだった。
——そのとき、ふいに、耳の奥が疼いた。
紙の感触を思い出す。埃を被ったあの廃墟。
崩れかけた棚から拾い上げた、一冊の本——
『マンヨウ』と、表紙にだけ記された、無言の書物。
そのページの端に、震えるような筆致で綴られていた一節があった。
読めなかったはずなのに、その響きだけが、私の中に焼きついていた。
> 風まじり 雨ふる夜の あかつきは
君をし思ふ ことにまされり
風と雨がまじる夜明けに、
誰かを思う気持ちが、いつにもまして深くなる——
誰かを、思う。
まだ名前も知らない“君”を。
そんな思いが、この胸にもあったのだと——私は、気づいた。
私は、それをなぞるように、そっと口にした。
「……かぜまじり……あめふるよの……あかつきは……」
言葉は震えていた。
けれど、その震えが、私の全身に染み渡っていく。
装置が、かすかに共鳴を始めた。
床がわずかに揺れ、空気がひと筋、細く振動する。
埃が舞い、光のない倉庫のなかに、
まるで見えない波が広がっていくようだった。
私は、ただ見ていた。
でも、確かに“何か”が起きた。
私の声が、この世界に、触れたのだ。
「……いまの……」
青年は微笑んだ。
「届いたよ」
その言葉を聞いたとたん、胸の奥がふっと緩んだ。
息を吸うのも忘れていたことに気づく。
そして、不思議な熱が、指の先からじわじわと広がっていった。
これは——わたしの声だ。
誰かに教わったわけでも、命じられたわけでもない。
生まれてはじめて、自分で言葉を選び、自分でそれを響かせた。
それが、世界に届いた。
世界は変わらない。すぐには。
けれど、裂け目はある。
そのわずかな揺らぎの中に、私は確かに「自分がいた」と思えた。
胸の奥で、まだ微かに震えているその余韻を、
私はそっと抱きしめた。
青年が差し出した水筒を受け取り、私はそっと口をつけた。
水はひんやりとしていて、喉の奥を静かに潤していく。
その瞬間、喉だけでなく、私の中にずっと乾いていた何かが、
ようやく水を得たような気がした。
詩が、言葉が、世界に届いたという体験は、
誰かの承認よりもずっと深く、私の存在を照らしていた。
その光は小さくても、確かに、ここにある。
(第33話|終)
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