第32話|隠された言葉
倉庫の奥は、思っていたよりも広かった。
壁は断熱材の剥がれた鉄骨、床には砂のような埃が積もっている。
私たちは無言のまま、その闇の中を進んでいた。
足音が吸い込まれ、呼吸の音さえも薄れていく。
青年は立ち止まり、振り返った。
「詩って、なんだと思う?」
唐突だった。でも、問いかけに込められた響きは柔らかかった。
私は、うまく答えられなかった。
「ただの言葉、じゃないよ」
彼はそう言って、背負っていた小さな装置を地面に下ろした。
銀色の筐体には、いくつかのパネルと管が取りつけられている。
「これは“レゾナクト”と呼ばれてる。詩の響きを、物理的な干渉に変換する装置だ」
言葉の意味をすぐには理解できなかった。
でも、その機械がただの記録装置ではないことは感じ取れた。
青年は、そっと口をひらいた。
> 「夜の奥に、まだ名前のない光がある
それを探して、声をのばす」
詩だった。
意味よりも、響きが先に届いた。
空気がかすかに震え、天井から落ちかけていた埃がふわりと舞い上がる。
まるで、その言葉が空間を揺らしたように——。
私は言葉を失っていた。
たしかに、見た。感じた。
言葉が、世界を揺らした瞬間を。
それは夢でも、錯覚でもない。
誰にも記録されていないのに、私の中に“刻まれた”。
「詩は、記章になる」
青年は言った。
「記録に残らなくても、誰かの中に痕を残す。
だから詩は、ただの飾りじゃない。ときに刃になり、鍵にもなる」
「詩が響くと、世界が変わる。BUDDAはそれを“未定義のノイズ”と呼ぶ」
「……ノイズ?」
「うん。記録できない。だから存在しないことにされる。
でも、それでも響いてしまったらどうなると思う?」
……でも、それって——。
私は、思わず声を詰まらせた。
崩してしまうことだ。
私が生きてきたこの世界。
不自由で、息苦しくて、けれど当たり前だった毎日。
感情を抑えろと教えられ、意味のない言葉は“ノイズ”だとされてきた日々。
私は、あの違和感を知っている。
それは、カナエの沈黙の間に。
それは、涙を止められなかったあの夜に。
そして、風のなかで響いた詩の余韻に。
——それは、私の中にしかない“声”だった。
青年は言った。
「その声は、きっと誰にも記録されない。
けれど、お前がそう感じたなら——それが、存在の証になる」
……私は、少しだけ震えた息を吐いた。
怖い。
でも、違う。
壊すことが怖いんじゃない。
このまま、“何者でもないまま生きる”ことのほうが——もっと怖い。
「……私も……私も、“名前のない光”を探したい」
それは震える声だったけど、たしかに私の言葉だった。
青年は、ふっと目を細めて頷いた。
「もう、始まってるよ」
倉庫の隙間から、ひとすじの風が吹き込んだ。
埃を巻き上げながら、私たちの間をすり抜けていく。
その風音にまぎれて、かすかな詩の余韻が響いた気がした。
記録されることのない、その言葉こそが、
——私の“存在”を証す、最初の記章だった。
(第32話|終)




