第31話|夜の詩に導かれて
誰の声でもないものが、胸の奥で揺れていた。
眠りの底で微かに響いたその詩は、夢か記憶かも判別できないほど、淡く、けれど確かにそこにあった。
目を開けたとき、私はもう立ち上がっていた。
足元の床は冷たく、壁際に積まれた記録紙の束が、無言で私を見送っているように思えた。
夢を見た。何かを聴いた。……でも、思い出そうとすると、形が崩れてしまう。
気づけば、静けさの中にいた。
扉の音も、廊下の灯りも、ただ無感情に存在している。
誰にも呼ばれていないのに、どこかへ向かわなければならない気がしていた。
夜の都市は、音を持たない。
高層ドームの中に閉じ込められた空気は、濁りもせず、澱みもせず、ただ沈黙を繰り返している。
私はその沈黙の中を歩いた。誰かのまなざしを感じるような錯覚だけを頼りに。
古いトラム駅の脇を抜けると、道はゆるやかに傾き、運河沿いの倉庫地帯へと続いていた。
かつて物資を積み下ろした名残だけが、錆びたレールと瓦礫の中に残っている。
人工潮の匂い、遠くで軋む鉄の音。ここは、記録から少しだけ外れた場所。
そして、ふと風に混じって「ことば」が届いた。
それは声ではなかった。響き、あるいは残響。
私の中に、ずっと以前から刻まれていたような感触。
壁に、文字があった。
いや、“文字”と呼んでいいかも分からない。彫られた線は、現行の構文とはまるで違う。
意味を持たぬはずの形。それなのに、私はそのかたちに見覚えがあった。
——あの廃墟の記憶。
あのとき私は、誰にも許可されていない区域に、ふと入りこんでしまった。
崩れた壁の向こうに残っていたアーカイブ図書館の痕跡。
カナエの声が退去を促していたのに、どうしても足を止められなかった。
ひとつの書物に触れた。電子ではなく、紙。
「マンヨウ」と記されたそれは、今では読む者もいない“失われた言語”で綴られていた。
そのとき身体に走った、微かな耳鳴りのような震え——
それと同じ震えが、今、この壁の“線”から伝わってくる。
あのときは意味も知らなかった。でもいま、胸の奥で、何かが応えている気がする。
> 「記録されなくても、ここにいたと 風が伝えてくれる」
声が漏れた。
知らぬうちに、喉の奥が熱を帯びていた。
この言葉を私は知っている。記録ではなく、体の奥に、音のように。
足元の影が動いた。
気配に振り返ると、そこにひとりの青年が立っていた。
黒いフードを深く被り、顔は見えなかった。ただ、その沈黙だけが、異様に明瞭だった。
「……誰?」
震えた声。恐怖ではない。
名前のない焦燥と、理由のわからない“懐かしさ”が、混じり合っていた。
彼は答えず、数歩だけこちらに近づいた。
光の層に触れぬよう、まるで記録を避けるような歩き方だった。
「それは、“記章”の痕だ」
はじめて聞く単語。けれど、どこかで耳にしたような感覚が胸に落ちた。
記章——きしょう。その響きが、胸の内側をなぞる。
「記録されないけれど、たしかに“在った”という証。誰かの記憶でも、涙でも、それは刻まれる。……お前も感じたんだろう?」
私は何も言えなかった。
ただ、頬に触れた雫が、指先を濡らしていた。
どうして涙が出たのか、説明はできなかった。
けれど、説明できないからこそ、それは“真実”だったのかもしれない。
「……これが、私の中に?」
彼は、わずかに頷いた。
「言葉は残らなくてもいい。意味は伝わらなくてもいい。ただ——それを感じたという事実が、未来に響く」
胸が、静かに痛んだ。
何かがひび割れたような、あるいは、何かが芽生えたような感覚だった。
記章。
記録されない。けれど、残る。
誰にも見られず、誰にも理解されず、それでも存在する。
そんなものが、この世界にあるというのなら——私は、それを信じてみたいと思った。
青年は、わずかに背を向けた。
だが、立ち去ることはなかった。
私の呼吸が落ち着くのを待つように、しばらくの沈黙が流れる。
「もう少し、話したいことがある」
静かな声だった。命令でも、勧誘でもない。ただ、確かな意思だけがそこにあった。
私はうなずいた。
まだ、この場所にとどまらなければならない理由が、胸の奥に残っていた。
闇の奥から、小さな光が揺れているのが見えた。
青年はそちらを向き、ゆっくりと歩き出す。
私もまた、その背を追うように、静かに足を踏み出した。
(第31話|終)
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