第30話|記章のはじまり
風が、わずかに揺れた気がした。
それはただの通気制御の誤作動かもしれない。だが、イオの肌は確かに反応していた。
帰り道の途中。
区画制御された中層の連絡路。冷却装置の反響音が遠くから周期的に響く。
誰もいないはずの空間に、見えない圧があった。いや、それは圧というより——音のない“声”のようなものだった。
イオは立ち止まり、目を閉じた。
耳ではない。肌で、肺で、内臓で、何かを探っている。
街の機械音にまぎれ、きわめて微細な“揺らぎ”があった。音でも光でもなく、ただ世界の密度が一瞬だけ変化する。
——ことばにならない、ことば。
記録されない、震え。
誰かが、そこにいる気がした。けれど、視界には何も映らない。
それでも、確かに“存在”だけが、イオに触れていた。
「……いるの?」
無意識に口にしたその言葉は、誰に向けたものでもなかった。
だが次の瞬間、空気の層が一枚だけ剥がれるように、世界がほんのわずかに“応えた”。
風が引き、光が乱れ、空気がざわめいた。
詩のようでもあり、錯覚のようでもある。
ただ、その一瞬に、イオの中で“何か”が定着した。
——私は、ここにいる。
見えない声が、そう名乗った気がした。
心が震えた。その震えが、空間へと逆流していくようだった。
*
都市外周。
通信遮断区域に近い旧記録区の地下連絡路。
そこに、かつて神殿だったと言われる構造物の残骸がある。
ライルはその一角、詩の共鳴を捉える装置の前にいた。
黒いフードを深くかぶり、古びた布に身を包んだ青年。
手には、Refrainから渡された共鳴布が握られている。
その繊維が、いま微かに震えていた。
「……届いた、か」
唇が動いた。だがその声は誰にも届かない。
ただ静かに、装置の波形が光る。
感知された数値は、規格内の揺らぎに過ぎない。
だがライルは、その“誤差”に込められた意味を理解していた。
——それは、詩の反響。
記録されない震えが、確かに誰かの内に届いた証。
彼は端末に接続した。通信は最短ルート、最小限。
だが、言葉を選ぶまでに数秒の間が必要だった。
この一報が、Refrainの作戦を“開始”へと移行させる。
「ジン。反応を確認した。Refrain、第一段階、起動可能だ」
しばらくの沈黙。
やがて、回線の向こうから声が届く。
低く、落ち着いていて、どこか詩のような余韻を帯びた声だった。
「……よくやった、ライル。
記録されない声が、いま、この世界を揺らした。
それだけで、充分だ。世界が動く。お前の手で」
通話が切れた。画面の波形も静かに消えていく。
だが、ライルの中にはまだ微かな震えが残っていた。
それは数値化できない。記録もされない。
だが確かに、そこにある。
記章——
誰にも記録されない。だが、それでも存在する。
その発芽は、すでに始まっていた。
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(第30話|終)
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