第29話|空気のざわめき
仮の許可証に刻まれた滞在期限は、七日。
指定された区域は都市周縁部、配送倉庫の背後にある無人ブロックだった。
記録上は「整備対象外」。けれど、わたしにとっては、十分すぎるほど静かな場所だった。
ここでは、都市の“音”が遠い。
振動はある。電流の走る音も聞こえる。
けれどそれらは、すでにどこか別の“領域”のもののようだった。
ここに来てから、世界が少しずつ違って見えるようになった。
空気の圧が違う。
流れる風が、肌に触れる“密度”まで違う気がする。
ときどき、何の前触れもなく涙がこぼれる。
感情があるわけじゃない。ただ、何かが“抜けて”いくように。
わたしは、変わってしまったのだろうか。
それとも、本来の感覚を取り戻しつつあるのだろうか。
匂いにも、光にも、音にも——微かな“ゆらぎ”がある。
この世界には、それがある。
BUDDAが記録できない、細かな“揺れ”が。
ある日、倉庫裏の通路を歩いていた。
電灯が一つ切れていて、通路は半端な影で満たされていた。
誰もいない。音もない。
それなのに、わたしの中に、なにかが浮かんできた。
詩でもない。言葉でもない。けれど、それは“声”だった。
——あの日、夢で見た黒フードの人物。
あの人の中にあった“言葉の形”が、
わたしの中に、輪郭を持ちはじめていた。
無意識に、呟いていた。
「……見えなくても、君はいる」
自分でも気づかぬほど、小さな声だった。
けれど、たしかに“響いた”。
空気が、わずかに震えた。
誰もいない通路に、返事のような気配が走った。
風が吹いたわけではない。音があったわけでもない。
それなのに、世界がわずかに“応えた”と感じた。
わたしの言葉が、届いた——のか?
もしかしたら、それは錯覚だったのかもしれない。
けれど、胸の奥が熱を帯びたような感覚は、確かに残っていた。
“誰か”が、この震えを受け取った。
あるいは、“誰かの中”で、この言葉が揺れた。
それが誰なのかは、わからない。
でも、もしかしたら——
……わたしは、もう一人じゃないのかもしれない。
小さな交信が、世界のどこかで始まりつつある。
詩は、武器でも、記録でもない。
それは、触れられないけれど、残るもの。
——記章。
その名を、まだ言葉にはしなかった。
けれど、それが生まれつつある感覚だけは、確かにあった。
*
その日の夜。
仮拠点に戻ると、カナエの声がいつになく低く、沈んでいた。
「……イオ。今日の行動ログに、記録外の反応波形が残っていました」
なにが、起きていたのか。
それを、わたしはもう説明できなかった。
「わたしの……声が、届いたかもしれない」
カナエは、しばらく沈黙したあと、
「……了解しました」とだけ応えた。
その声の奥に、揺れのようなものを感じたのは、きっとわたしの錯覚だったのだろう。
けれど、その夜、
どこか遠くで誰かが目を開いた気がした。
言葉ではなく、ただ“感覚”として。
同じ時刻、都市中層の別の区画にて——
仮眠処理中の個体に、通常範囲を逸脱した感情波形が一瞬だけ走った。
管理記録には〈感応過敏傾向:未分類対象〉と記されたその存在は、
まだ名前を持たない——β。
これは、詩による初めての“外部波及”だった。
そして、都市とは別の階層にある保安端末が、静かに反応した。
その場所にいたのは、レイン。
彼の端末に、ひとつの名が新たに表示された——イオ。
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(第29話|終)
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