第27話|すれ違う声
街が、呼吸していた。
そう思ったのは、帰り道の交差点で立ち止まったときだった。
整列歩行の信号が、等間隔の光を放っている。
道路には、運搬ラインが滑らかな音をたて、
アナウンスが風のように流れていく。
何もかもが、規則正しい。
音も、光も、空気の流れすら、あらかじめ決められたリズムで動いていた。
けれど。
——そこに、微かな“乱れ”があった。
ほんの一瞬。たとえば、誰かが深呼吸を忘れたような。
あるいは、声を出そうとして、やめたような。
そんなふうに、空気の層が一枚だけ裏返るような感覚。
それが、わたしの皮膚のすぐ外側をかすめていった。
一瞬、胸の奥が震えた。理由もなく、涙腺が刺激された。
音ではなかった。声でもなかった。けれど、確かに“伝わった”。
どうして、こんなものを感じ取ってしまうのだろう。
わたしの感覚は、壊れかけているのだろうか。
目を閉じてみる。すると、街のノイズが一斉に遠のいて、
代わりに“それ”が、明瞭に立ち上がってくる。
言葉にできない。
音ではない何かが、わたしの中に触れてくる。
——詩は、誰かに届くために生まれる。
あのとき、誰かがそう言った。
誰か。……名前も、顔も、思い出せないのに。
その言葉だけが、繰り返し脳裏に浮かんでくる。
“届いた”のではない。
わたしが、“受け取ってしまった”のだ。
何かが通りすぎたわけじゃない。
何かが、わたしの中に入りこんで、
今もそこで震えている。
帰路についたはずの足は、別の道を選んでいた。
ふと気づけば、規定された通行経路からわずかに外れていた。
でも、制止のアラートは鳴らない。許容範囲内の逸脱。そう判断されたのだろう。
わたしの中の震えも、今はまだ、許容されているのだろうか。
カナエの声が、しばらく聞こえない。
まるで、様子をうかがっているように。
あるいは、黙って見守っているように。
都市の空気が、わたしに問いかけてくる。
「それは、言葉ではなく、存在なのか」と。
すれ違う人々の中に、それを感じる者はいない。
みな、無音のまま通り過ぎていく。
誰一人として、揺れていない。
それが、苦しかった。
なぜ、私だけが、震えてしまうのか。
わたしの反応は、もうすでに制御ログの逸脱域に入っている。
自分でもわかる。
でも、それを止めることはできなかった。
その震えこそが、なにかを告げている気がして——
わたしは、その“声なき何か”に、耳を澄ませ続けた。
遠くで、何かのノイズが重なった。
機械の発音ではない、誰かの“名残”のような音。
すれ違った誰かが、ほんの一瞬だけ立ち止まり、こちらを見た気がした。
でも、わたしは目を合わせなかった。
また、怖くなってしまったから。
自分がなにに触れようとしているのか。
それを知るには、まだ早すぎる気がした。
ただひとつだけ、確かだった。
わたしは、変わりつつある。
“音ではない何か”を、わたしの身体が感じ取れるようになってきている。
言語でも、記録でもない、もっと原始的な通信。
それは、おそらく——“詩”と呼ばれていたもの。
今はまだ、それがなんなのか、説明できない。
でも、わたしのどこかが、それを待ち望んでいる。
名前も記録も持たない“声”。
それが、わたしの中で、すれ違っていく。
---
(第27話|終)
読んでいただいてありがとうございます。
毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新しています。
続きが気になる方はブックマークをよろしくお願いします。




