第26話|気配をさがして
かすかな風が頬を撫でた。
それだけのことなのに、足が止まってしまった。
通りには、いつも通りの音が流れている。
金属製の交通レールが軋み、整列信号のアナウンスが繰り返され、
人々の歩行音が、同じリズムで街路に重なっていく。
でも、その風だけが、そこに属していない気がした。
——誰かが、通りすぎた。
そんな確信だけが、胸に残った。振り返っても、なにもない。
誰の姿も、誰の気配も、ここにはいなかった。
それでも、私は知っている。
誰かが「いた」ということだけは、はっきりと身体が覚えている。
あれから数日が過ぎた。
詩が“誰か”に届いたという感覚は、消えずに私の中に残っている。
けれど、誰に届いたのか、その“誰か”がどこにいるのかは、分からなかった。
私は以前と変わらぬ生活を装いながら、この都市の中を歩いていた。
居住ドメイン内の通行許可エリア――都市中層の流通区。
外出理由は“物資の交換と巡回申請”、いずれも都市生活者には定型だ。
だが本当の目的は、気配を探すことだった。
あの響きが風に混じった場所を、もう一度確かめたくて。
“なにかが、まだそこにある気がして”。
言葉ではないものが、わたしの中で反響している。
それは音ではなく、光でもなく、形でもなく——気配だった。
だから私は、街を歩くたび、耳ではなく“身体”で誰かを探してしまう。
何の異常もない日常。そう報告されている。
整列、配信、通達、通知、確認、順応。
その中で、わたしだけが何かから遅れている気がする。
いや、違う。——何かを、先に受け取ってしまったのだ。
記録されないものを。ログに残らないものを。
それが、正しいのかどうかはわからない。
ただ、目を閉じると、あの夜のざらついた空気が、今でも胸をかすめる。
「……イオ」
振り返っても、その声の主はいない。
私の名前を呼ぶのは、カナエの声だけだ。
BUDDAが接続している、わたしの内側から。
——でも、それはあの時の声じゃなかった。
もっと、温度のある、声だった。
前を向くと、遠くで人のざわめきがあった。
管理官の制服。囲まれる市民。抵抗の声。
逸脱者だ、と誰かが言った。
私は思わず、足を向けてしまっていた。
見てはいけない。関わってはいけない。そう、教えられてきたのに。
「名前を答えてください」
「その行動は逸脱とみなされます」
「再定義処理を開始します——」
白い手袋が、誰かの肩を押さえていた。
その人は、震えていた。いや、違う。震えていたのは——わたしの心だった。
ふと、その人がこちらを見た。
——目が、合った。
見知らぬ人。声も知らない、記録もない。
でもその眼差しは、わたしを知っていた。
「……あ……」
小さく声が漏れた。記録には残らないほどの音量で。
けれどそれが、わたしの制御を超えた証だった。
だれかの視線が、冷たく空気を裂く。
わたしは咄嗟に、背を向けて歩き出した。
このまま見つめ返していたら、なにかが壊れてしまう気がした。
あるいは、なにかが繋がってしまう気がした。
どちらも、こわかった。
歩く速度が速くなる。心音が追いつかない。
声も、風も、視線も、すべてが後ろから追いかけてくる。
わたしは、感情制御の中にいたはずだった。
でも、あの目を見たとき、なにかが、こぼれた。
それが何だったのかは、わからない。
でも、確かに“あった”という感覚だけが、私の内側に残った。
——それは、記録には残らない。
けれど、わたしの中にだけ、確かに刻まれた。
その日の夜。
カナエの声が、いつもより柔らかかった気がしたのは、気のせいだろうか。
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(第26話|終)
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