第22話 綻びをなぞる
本を胸に抱いたまま、イオはしばらく動けずにいた。
手のひらに伝わる革表紙のぬくもりが、なぜか身体の奥を落ち着かせてくれる。
風がそっと入り込む。
部屋の空気がわずかに揺れ、本のページの端が、ふわりと浮いた。
(……読んで、いいの?)
誰に問うでもなく、胸の中にその言葉が生まれる。
まだ怖かった。
この本に何が書かれているのか。
読み解けるはずのない記号に触れることで、自分がどこか変わってしまう気がしていた。
それでも、指が動いた。
ごく自然に。
本の重さを支え直し、ゆっくりと表紙をめくる。
ざらりとした紙の感触が、指先を震わせた。
その震えが、皮膚から脳へ、そして胸の奥へと静かに届いていく。
ページの中央。
不規則な文字列が並んでいた。
記号とも、文字ともつかない形。けれど、視線がそこに吸い寄せられていく。
意味はない。だが、ある。
イオの中で、そのどちらでもない感覚が息づいていた。
指先が、ひとつの文字の縁に触れた。
その下に、丸印があった。
ざらついた印を、そっとなぞる。
ただ紙に触れているだけのはずなのに、その一点から、皮膚の奥へ何かが染み込んでいく。
口が開いていた。
意識するより早く、喉が震え、声が生まれた。
> 「……なにごとか おもほゆる……」
発せられた瞬間、空気が揺れた。
目には見えないはずの風のかたちが、音になって部屋の中を満たしていく。
《発声認識。構文解析──失敗。再計測中……》
カナエの声が、少し遅れて脳に届く。
その抑揚もいつもよりわずかに低く、響きが濁って聞こえた。
(いま、わたし……何を言ったの?)
知らないはずの言葉。
けれど、まるで自分の中にずっと眠っていたもののように、自然だった。
ページの一節を見つめる。
その短い〈詩〉句が、意味のすべてを抱えていた。
否、それは「意味」ではなく「綻び」だった。
言葉と感情を繋ぐ糸の、最初の裂け目。
息を吸い込むと、空気が少しだけ重くなっていた。
光が、埃を包むように濃く、遅く流れている。
カナエの構文解析はまだ続いている。
けれど、その機械的な処理の背後に、かすかな“迷い”のようなものが滲んでいた。
> 《非標準言語波形。意味領域外。記録保持中──ただし影響は軽微》
その応答は、どこか自分に言い聞かせているようだった。
イオはもう、応答を聞いていなかった。
胸の奥で、言葉にならないものがゆっくりと膨らんでいた。
「わたし」が、ようやく自分の輪郭に触れはじめている感覚。
声は、意味のためにあるのではない。
〈詩〉は、伝えるためにあるのではない。
それは、存在の震えが、かたちになろうとした結果だった。
風が吹いた。
窓がかすかに揺れ、外の光がページの上に落ちた。
その光の中で、文字たちが生きているように見えた。
> 「……これが、〈詩〉……?」
イオの声は、ささやきにも似ていた。
けれど、そこには確かな実感があった。
誰かに教わったのではない。
自分のなかで、確かに育っていた何か。
まだ言葉にはならない“揺らぎ”が、その小さな声に宿っていた。
本のページが、風にあおられて一枚めくれた。
誰も触れていないのに、次を示すように、静かに。
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(第22話|終)
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