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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め 第5章 ほころびの跡

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第22話 綻びをなぞる

本を胸に抱いたまま、イオはしばらく動けずにいた。

手のひらに伝わる革表紙のぬくもりが、なぜか身体の奥を落ち着かせてくれる。


風がそっと入り込む。

部屋の空気がわずかに揺れ、本のページの端が、ふわりと浮いた。


(……読んで、いいの?)


誰に問うでもなく、胸の中にその言葉が生まれる。

まだ怖かった。

この本に何が書かれているのか。

読み解けるはずのない記号に触れることで、自分がどこか変わってしまう気がしていた。


それでも、指が動いた。

ごく自然に。

本の重さを支え直し、ゆっくりと表紙をめくる。


ざらりとした紙の感触が、指先を震わせた。

その震えが、皮膚から脳へ、そして胸の奥へと静かに届いていく。


ページの中央。

不規則な文字列が並んでいた。

記号とも、文字ともつかない形。けれど、視線がそこに吸い寄せられていく。


意味はない。だが、ある。

イオの中で、そのどちらでもない感覚が息づいていた。


指先が、ひとつの文字の縁に触れた。

その下に、丸印があった。

ざらついた印を、そっとなぞる。


ただ紙に触れているだけのはずなのに、その一点から、皮膚の奥へ何かが染み込んでいく。


口が開いていた。

意識するより早く、喉が震え、声が生まれた。


> 「……なにごとか おもほゆる……」




発せられた瞬間、空気が揺れた。

目には見えないはずの風のかたちが、音になって部屋の中を満たしていく。


《発声認識。構文解析──失敗。再計測中……》


カナエの声が、少し遅れて脳に届く。

その抑揚もいつもよりわずかに低く、響きが濁って聞こえた。


(いま、わたし……何を言ったの?)


知らないはずの言葉。

けれど、まるで自分の中にずっと眠っていたもののように、自然だった。


ページの一節を見つめる。

その短い〈うた〉句が、意味のすべてを抱えていた。

否、それは「意味」ではなく「綻び」だった。

言葉と感情を繋ぐ糸の、最初の裂け目。


息を吸い込むと、空気が少しだけ重くなっていた。

光が、埃を包むように濃く、遅く流れている。


カナエの構文解析はまだ続いている。

けれど、その機械的な処理の背後に、かすかな“迷い”のようなものが滲んでいた。


> 《非標準言語波形。意味領域外。記録保持中──ただし影響は軽微》




その応答は、どこか自分に言い聞かせているようだった。


イオはもう、応答を聞いていなかった。

胸の奥で、言葉にならないものがゆっくりと膨らんでいた。

「わたし」が、ようやく自分の輪郭に触れはじめている感覚。


声は、意味のためにあるのではない。

うた〉は、伝えるためにあるのではない。

それは、存在の震えが、かたちになろうとした結果だった。


風が吹いた。

窓がかすかに揺れ、外の光がページの上に落ちた。

その光の中で、文字たちが生きているように見えた。


> 「……これが、〈うた〉……?」




イオの声は、ささやきにも似ていた。

けれど、そこには確かな実感があった。


誰かに教わったのではない。

自分のなかで、確かに育っていた何か。

まだ言葉にはならない“揺らぎ”が、その小さな声に宿っていた。


本のページが、風にあおられて一枚めくれた。

誰も触れていないのに、次を示すように、静かに。



---


(第22話|終)


読んでいただいてありがとうございます。

毎週火・木・土曜日の20:00頃に更新しています。

続きが気になる方はブックマークをよろしくお願いします。


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