第21話 目覚めの詩
夢のなかで、誰かが詩を詠んでいた。
意味はわからなかった。ただ、風のようなその声が、静かに胸の奥に触れてきた。
> ――なにごとか おもほゆる。
目が覚めても、その響きは消えなかった。
耳の奥ではなく、もっと深いところ。
皮膚の裏側で、ずっと微かに震えていた。
イオは、天井を見つめたまま、しばらく身動きができなかった。
布団の縁を握った指先に、汗とは違う熱が滲んでいた。
《おはようございます。気象情報:晴れ。気温:18.2度。予定作業:Aブロック灌水、Bブロック除草──》
カナエの声が、脳内に届く。
整然とした通達。いつもと変わらないはずの、ただの情報の列。
けれどその声が、妙に遠く感じられた。
(昨日までは、もっと……近かった)
イオはゆっくりと体を起こし、床に足を下ろす。
素足が木の床板に触れた瞬間、かすかな冷たさが脊髄を這い上がった。
それさえも、どこか“異質”だった。
窓を開けた。朝の光が流れ込む。
風が髪を揺らし、畑の土の匂いが鼻腔に触れた。
昨日と同じ風景、同じ空気──のはずなのに、すべてが濃く、重く感じられる。
世界の輪郭が、わずかに滲んでいる。
変わったのは、外ではなく、内側。
わたし自身の感覚。
カナエの起床確認はまだ続いていたが、イオは耳を貸さなかった。
視線は、机の下へと落ちていた。
畳まれた毛布の陰。そこに隠した本がある。
あの廃墟で見つけた、擦れた背表紙と手縫いの綴じ糸。
手で触れた瞬間、記録されない震えが確かに走った。
毛布をそっとめくる。
指先が、表紙の革のざらつきをなぞる。
触れた場所から、またあの震えが生まれる。
イオはゆっくりとそれを抱きしめ、床に座り込んだ。
> 「……カナエ、この本のこと、覚えてる?」
しばらくの沈黙。
わずかに遅れて、応答が届く。
《旧記録構造体と一致せず。未分類媒体として保留中》
無機質な回答。だが、どこか反応に乱れがあったような気がした。
その“わずか”を、イオは感じ取ってしまう。
(わたし……何か、触れたんだ)
ページを開く勇気はまだ出なかった。
けれど、本を抱いたまま、目を閉じる。
風が、遠くから部屋に入り込み、ページの端をかすかに揺らした。
その揺れが、夢のなかで聞いた詩の“声”と重なった。
世界が何かを待っている。
そんな予感だけが、静かに胸を満たしていた。
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(第21話|終)
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