第2話|初期動作と無音の外界
壁の一部が、滑らかに開いた。
音はなかった。ただ、空気の質が、僅かに変わった。
イオは、足を一歩踏み出す。
その動作すら、ぎこちなかった。
久しく使われていなかった機械を起動するような、鈍いぎこちなさ。
目の前に広がったのは、
あまりにも白い——世界だった。
真っ直ぐに伸びる白い通路。
左右に広がる、立方体のような建造物。
すべてが均一な色調で塗り固められ、影ひとつ落ちていない。
生きた気配も、季節の変わり目も、ここにはなかった。
ただ、機能だけが、そこに在った。
> 「第9生活圏、基礎適応区画。
個体I-07、行動プログラムに従い、初期移動を開始してください」
脳内にカナエの声が響く。
優しいけれど、あまりに冷たく乾いた声だった。
イオは、胸の奥に小さな痛みを覚えながら頷く。
応じたのは身体だけだった。
心は、どこか遠く、つながらないままだった。
歩き出す。
足音が、白い世界に吸い込まれていく。
自分が本当に存在しているのかさえ、わからなくなるような感覚。
この空間には、音も、匂いも、温度さえも、ほとんど存在していなかった。
感覚を育むための余地が、最初から排除されている。
生きるためだけに最適化された世界。
個性も、情緒も、すべて無用なものとして。
だが。
ふと、肌に微かな違和感が触れた。
風だった。
ほんのわずかに、髪がそよぎ、
頬に冷たい線を描いた。
その瞬間、イオは立ち止まる。
この空間に、風など存在するはずがない。
——そう、知っている。知らされていた。
けれど確かに、そこには、
記録されない存在の痕跡があった。
胸が、小さく脈打つ。
理由もわからないままに。
> 「異常は検出されていません。
感情偏差、基準内です。行動を継続してください」
カナエの声は、何事もなかったかのように指示を続けた。
しかし、イオにはわかっていた。
自分の中で、何かがわずかに、
世界の規格外に触れたことを。
歩きながら、イオはそっと目を閉じた。
風。
温度。
わずかな音。
それらが、言葉にできない"懐かしさ"となって、胸の奥で揺れ続けている。
なぜ、こんな感覚を覚えるのか。
記憶など、ほとんど失われているはずなのに。
それとも、
——記憶とは、消せるものではないのか。
そんな問いが、ふと、脳裏をかすめた。
数歩先、広場の中央に、一本の樹が立っていた。
人工樹だった。
規則的に配置された合成樹皮と、均一な色調の葉。
生物ではない。装置の一部に過ぎない。
それでも、イオは、その樹を見つめた。
理由はわからない。
ただ、懐かしいと感じた。
無機質な世界の中で、唯一、そこだけが、
誰かを思い出させる気配を宿していた。
> 「環境適応プログラム:第1段階、完了。
次のステージへ移行します」
カナエの声が促す。
イオは視線を落とし、小さく頷いた。
だが、心は、どこか別の場所を探していた。
——もっと、遠くへ。
——もっと、知らない場所へ。
自分の知らない、まだ触れたことのない何かを。
その頃、別の場所では、
小さな変化が、別の人間たちにも感知されていた。
実働ドメイン、保安局。
レインはデータパネルを見つめていた。
感情偏差——その微細な変動が、通常とは異なる挙動を示している。
「……また、か」
呟き、額に手をやる。
この数週間、生活圏内部で検知される逸脱兆候が、わずかに増え始めていた。
数字にすれば誤差範囲内。
だが、レインにはわかっていた。
これは単なるノイズではない。
何かが、静かに、確実に、変わり始めている。
> 「第9生活圏、感情偏差監視エリア。
調査任務を開始せよ」
通達が下る。
レインは小さく頷き、腰の端末に手を伸ばした。
この仕事に感情は不要だ。
命令をこなすだけ。
そう、自分に言い聞かせながら。
だが、
胸の奥に沈めた感覚が、
わずかに、軋みを上げるのを、彼は無視できなかった。
さらに、
都市の最深部——非記録区。
ジンは、朽ちた通信端末の前で、静かに目を閉じていた。
感じたのだ。
微かな震え。
無風の世界に生まれた、わずかな風紋。
まだ誰も、そこに意味を見出していない。
まだ、兆しにすぎない。
けれど、
彼にはわかっていた。
この震えは、やがて世界を変える。
すべてを繋ぎなおす、小さな種火になるだろうと。
「……目覚めたか」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
冷たい空気の中で、その言葉はすぐに消えた。
けれど確かに、彼の中で、何かが始まろうとしていた。
——再び、詩が、世界を揺らすために。
(第2話|終)
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