第19話 触れた証
夜。
窓の外には、人工的な光の粒が浮かんでいた。
街は霧に沈み、その輪郭を薄くぼかしている。
イオは端末を開いた。
そこに、ひとつの警告が点灯していた。
> 《感情波形ログ:分類不能データの蓄積を検出》
《発生源:自由対話モード中の発声記録に由来》
《外部送信ログ:検出されず》
《推奨処理:抑制対象外。記録保留に移行》
「……送ってないのに」
思わずつぶやいた声に、カナエが一拍置いて応えた。
> 《送信ログは確認されていません》
《ただし、対象波形は通信波に類似する変調を含んでいます》
《内部共鳴値が一定閾値を超過した可能性あり》
通信波。共鳴値。
言葉は難解だった。けれどイオの中には、それよりも確かな感覚があった。
「届いたんだと思う。あの声……」
それは、どこにも記録されていないはずの詩。
ただひとこと、胸の奥からこぼれたその“聲”が、空気を震わせた。
その震えが、誰かのもとへ届いた──そう確信していた。
それは意識でも、回線でも、物理でもない。
けれど、“触れた”という感覚だけが、静かに残っていた。
カナエはそれ以上、何も言わなかった。
だがその沈黙もまた、否定ではなく、肯定に近いものとして響いていた。
イオは窓の外を見つめた。
街は相変わらず静かだった。
けれどその静けさの奥に、わずかに“震え”が混じっている気がした。
目には見えないが、どこかが変わり始めている。
そんな気配が、確かに空気に含まれていた。
保安ドメイン第2観測棟。
端末に記録された共鳴ログに、レインは指先で印をつけた。
「逸脱候補:イオ」──そのラベルが、正式に昇格される。
要観察対象。
静かに、だが確実に、監視の段階は変わった。
レインはその画面を閉じ、席を離れた。
小さな揺らぎが、秩序の水面に広がりはじめていた。
遠く離れた都市の管理施設。
無機質な部屋の片隅で、ひとりの少年が眠っていた。
その名はない。
記録上のコードは、β(ベータ)。
出生情報も、家族記録も未登録。
生活行動は定時シフト化され、感情干渉は抑制下にある。
今日もまた、変わらぬ規定の眠りが、彼の中に続いていた。
……けれど今夜だけは、違った。
深い夢の底で、なにかが“触れた”。
言葉にはならなかった。
名前も、形もなかった。
ただ、ひとつの“聲”が胸のどこかを掠めていった。
その一瞬、彼のまぶたがわずかに動いた。
眉がかすかに寄せられ、手が布地をきゅっと握った。
また、眠りに沈む。
だが、確かに“触れた”のだ。誰も気づかないその痕跡が、
静かに彼の内部に息づいていた。
Refrain本部。
共鳴端末がもう一度、点灯した。
> 「対象:β。初期共鳴反応、波形感応域に達しました」
「記章干渉、第一フェーズ通過」
その報告に、奥の影がひとり、立ち上がる。
「……予想より早いな。接触を始めよう」
低くつぶやかれた声が、暗号化された経路を通じて、静かに送信された。
──記章がひとつ、触れた。
そして、誰かがそれに応答した。
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(第19話|終)
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