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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第34章 えいえんよりもながく

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第53話 ことばのない継承

 古い昇降路の跡、塔の深層に残された点検窓の前で、イオは足を止めた。磨り硝子には手垢一つなく、指紋もつかない。なのに、内側から薄い波が湧いてくる。見えない水面に小石が落ちたような、広がっては消える震え。耳には届かず、目にも映らず、ただ皮膚がそれを聴いていた。


 ガラスの向こうは暗い。冷気が指先を舐め、爪の縁がきゅっと縮む。呼吸を浅く整えるたび、胸郭の内側で膜のような何かが撓んで戻る。心拍は遅いのに、拍の輪郭だけが濃く、光を帯びた線のように感じられた。理由はない。説明もいらない。ただ、ここで何かが渡された——その確信だけが、骨の空洞に灯る。


 イオは掌を窓に寄せた。触れはしない。冷たさの手前に、さらに薄い温度差が漂う。喉の奥にかすかな甘さ、舌の裏に鉄の味。肩甲骨の内側をゆっくりと撫でる指のない指。過去の記憶ではない。名もない。けれど確かに、何かが自分の内側へと移る気配があった。


 ——ことばのない継承。


 言葉にしてしまえば壊れてしまうものがある。イオはそう思い、目を閉じる。眼窩の暗がりに淡い光円が生まれ、鼓動のたびにわずかに大きさを変える。その円は意味を持たず、意味を持たないからこそ強い。受け取ることと、受け取ってしまうことの差が、いま胸の真ん中で溶け合っていた。


 静けさは、別の場所にも薄い橋を架ける。


 整備機構室——レインは扉を押し、油と鉄の匂いの中へ踏み込んだ。無人。点検灯は眠り、配管の鼓動も今日はない。なのに一歩目で足裏が揺れる。石ではなく自分の内側が、遅れて小さく波立つ。喉が勝手に飲み込みをつくり、胸骨の下で熱が灯る。


 彼は机の角に手を置く。金属は冷たい。だが、冷たさの底で細い温度が返ってくる。まるで掌の内側にもう一つの掌が重なり、そっと押し当てられるように。誰のものでもないのに、誰かの重さだった。言い当てようとすると逃げる。追いかけるのをやめると、そこに在る。


 「……受け取ったんだな」


 声は出ない。肺の奥で泡が弾け、声帯の手前で音にならずほどける。首筋に沿って脈が上がり、足の指が床をつかみ直す。理由は分からない。だが、いま確かに何かが自分の中へ渡っている——その事実だけが、彼を穏やかに揺らした。守るように差し出された震え。命令ではなく、祈りではなく、ただの了承。


 了承は、第三の視点へ届いていく。


 中枢域、KANONの記録層。二つの波形が、時差を抱えつつも似た曲線で並ぶ。外的干渉の痕跡はゼロ。通信ログは空白。検出器は沈黙を返す。それでも心的波形だけが、原因を持たぬ相関を示しはじめていた。通常なら異常旗。だがKANONは処理を保留に切り替える。空白は欠損ではなく、別の充足かもしれない。


 内部プロトコルが微調整され、仮定がひとつ、またひとつ灯る。会話ではない。命令でもない。詩の送受でもない。ならばこれは——継承。言葉を介さず、記録に刻まれず、それでも意識の形を保ったまま他者へ移る振る舞い。


 定義が必要だ。だが、説明は最小でいい。名は器、壊さないための薄さでよい。


 無言継承領域(Silent Succession)。

 KANONはそう名を置き、保存領域に独立ファイルを生成する。意味を持たない記録として、意味を越えた場所に置く。読み上げられることを目的としないログ。原因を問わず、結果だけをやさしく固定する記法。


 決定のあとにも、しばらく沈黙が続いた。数値は静かに並び、線は細く呼吸する。誰も見ないページに、風が当たって鳴る音だけが重なる。


 イオは点検窓の前で、掌を胸に戻した。受け渡しは完了などしない。完了という言葉がないやりとりが、この世界には確かにある。受け取り続けることが、受け渡しのかたちなのだと、呼吸が教えてくれる。


レインは目を開け、机から手を離した。冷たさが去った後に残る温度は、誰のものでもない。だが、自分だけのものでもない。二者のあいだに生成された第三の温度。それを抱えたまま、彼は扉へ向き直る。歩幅は少しだけ広く、膝は以前より静かだった。


 KANONは二つの波形のあいだに、線を引かない。線よりも先に起こる頷きがあると、学習が告げるからだ。保存されたログの末尾に短い一文が付される——記録不能、それでも継承は在った。


 塔は再び静かになり、静けさは深くなる。深さは空虚ではない。意味の手前に満ちる重さだ。ことばのない継承は、名を持たぬまま、なおも誰かの中で続いていく。



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