第17話 聲のかけら
本は、部屋の隅の薄暗い場所に伏せられていた。
まるで今日という日を、黙って待っていたかのように。
イオはそっと手を伸ばし、綴じ糸のほどけかけた背に指を這わせる。
繊維のざらつきが皮膚に触れた。
その手触りは、記録にはないもの。
けれど、確かに“今ここ”にあると感じられるものだった。
ページをめくると、奇妙な並びの文字列が現れる。
それは言葉であるようで、そうではない。
視線で読む前に、すでに音として胸に届いていた。
> 「……なにごとか おもほゆる……」
無意識に声に出していた。
その瞬間、空気がふるえた。
耳で聴いたのではない。
自分の声だった。けれど、それは“誰か”のもののようでもあった。
言葉が喉を通る前に、身体の奥をすり抜けて、部屋の中に漂っていく。
> 《発声認識。構文解析失敗。再計測中……》
カナエの声が、数秒遅れて響いた。
どこか硬い。音の縁に、いつもにはない金属的なざらつきがあった。
まるで、無理やり応答を成立させているかのように。
イオはページを閉じなかった。
紙のざらつきが、手のひらに微細な震えとして残っていた。
けれど、それが自分の震えなのか、本の震えなのかはわからなかった。
それでも、ひとつだけ確かだった。
──これは、“記録されない”ものだ。
脳内のどこにも保存されず、構文化もされず、
ただ“声”として在った。
詩の意味は、わからない。
でも、その響きだけは、はっきりと胸の奥に沈んでいった。
> 「なにごとか おもほゆる」
言葉というには不完全で、音としてはやさしすぎる。
けれどそれは、世界と自分のあいだに落ちていた、
とても小さな“欠片”のようだった。
彼女はしばらくのあいだ、本を開いたまま、身動きもしなかった。
部屋の空気が静かに震え、誰もいないはずの空間に、微かな余韻だけが残っていた。
保安ドメイン第2観測棟。
レインの前に、もう一度あのログが現れていた。
音としては分類不能。文章化も不可能。
しかし、AIは別の項目に補足値を示していた。
──自由発話モード中の“空間共鳴値”、微小変動。
前回よりもわずかに数値が上がっていた。
「空間……?」
そう呟いた自分の声が、妙に遠く感じられた。
空間が震えたとすれば、それは“誰かがそこにいた”証だ。
記録できなくても、存在が痕跡を残すなら──それはもう、
ただの逸脱では済まない。
レインは席を立った。
観測棟の灯りの中に、何か見えないものが揺れている気がした。
同時刻。非記録区に設置された共鳴端末が、かすかに点灯した。
> 「対象:イオ。共鳴値、初期閾を超過」
──レジスタンス側で、何かが動きはじめていた。
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(第17話|終)
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