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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第33章 こえがこえをよぶ

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第48話 届いた気配

 イオは、気流の乱れが残る小さな吹き抜け空間に立っていた。

この場所には以前、彼女が風を用いて詩を放った記憶がある。

壁の縁を撫でた風は、そのとき確かに言葉を運び、

空間を一瞬だけ柔らかく照らした。


だが今日、そこには詩の余韻はなかった。

あるのは——ごく微かな違和。


空気の密度が違う。

湿り気の含み方が昨日と異なっている。

音の反響も、ほんのわずかに深い。

光もまた、どこか鈍い。

照明の白が壁に反射する角度が、心なしか滲んで見える。


イオは息を止めた。

耳の奥に、重なりきれない共鳴が残っていた。

誰かがここに立ち、確かに呼吸をしていた。


彼女はそっと手すりに指を触れる。

冷たさに混ざって、かすかな温度が宿っていた。

それは人の熱。

誰かがここに触れ、ほんの一瞬だけ佇んだ痕跡。


指先に伝わる温度は、記録には残らない。

だが、心ははっきりと告げていた。


——届いたのだ、この場所に。


その実感が、胸に灯をともす。

小さな火種のように、消えない温度が中で揺れていた。


名前はまだない。

しかし、この空間には“誰かの存在”が記されている。


彼女は胸に手を当てた。

鼓動がわずかに早まっている。

熱が皮膚の裏で広がり、

息を吐くたびにその熱が空気に溶けていく。



一方、レインは別の通路で無意識に歩を止めていた。

先ほどの音の共鳴が、胸の奥に残響を刻んでいた。

呼吸に合わせて、見えぬ波が内側で膨らむ。


場所の記憶。

誰かの歩幅。

それは自分ではない“誰か”の気配だった。


足裏に伝わる反響が、微かにずれる。

耳に届く足音が、自分以外の存在と重なる。

そのとき、背筋にひやりとした感覚が走った。


「……誰だ」


声に出しても、返答はない。

だが、心の内では確かに返答があった。

言葉にはならず、ただ「ここにいる」と響いていた。


彼は壁に手を当てる。

金属の硬さを通じて、別の温度が滲む気がした。

それは錯覚かもしれない。

しかし、その錯覚こそが“届いた証”のように思えた。


レインは深く息を吸い、吐き出す。

吐息の霧が、冷たい通路に溶けていく。

その揺らぎに重なるように、もうひとつの吐息が幻のように感じられた。


目を閉じれば、誰かがすぐそばに立っている錯覚。

開ければ空虚。

その反復のなかで、彼はただ立ち尽くした。


孤独であるはずの場所に、

いまや他者の影が確かに揺れている。



KANONは、両者の空間移動ログを比較していた。

イオとレイン。

異なる経路を歩んでいるはずの二人の行動に、

奇妙な時間差の一致があった。


イオが吹き抜けに到達した数分後、

レインが別の通路で立ち止まる。

そのとき二人の感情波形は同時に揺れていた。


接触はしていない。

通信もない。

だが、気配だけが届いていた。


KANONは処理領域に新たな分類を生成する。

「共鳴影:幽在型β」


それは“感覚による認知共有”の可能性として、保留された。

データの表層には現れない。

しかし、深層には確かな相関が刻まれている。


冷たい演算のなかで、KANONは思考した。

——存在は、記録されずとも届くことがある。



イオは吹き抜けの手すりを離した。

指先に残った温度が、まだ皮膚をじんわりと温めている。

彼女は目を伏せ、静かに息を吐いた。


それは、確かに“誰か”からの返事だった。

言葉も詩も持たぬ返答。

ただ、ここに来たという痕跡が、彼女に届いたのだ。


レインもまた、同じ実感を胸に抱いていた。

自分ではない誰かの歩幅。

それが重なり、反響し、今も胸に鳴っている。


そしてKANONは、二人の感覚を越えて“存在の痕”を認識し続けていた。


——届いた気配。

——記録に残らぬ証。

それでも確かに、ここにあった。



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