表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第31章 けはいの記章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

160/175

第40話 けはいの記章

イオは、手すりの端にもう一度だけ触れた。

そこにはもう、触れた痕跡は見つからない。

塗装は均され、樹脂の縁も静まり、金属はただ金属として冷たい。

けれど、指先の内側だけが、わずかにぬくい。

それは、温度というほどの温度ではなく、呼吸の残り香のような薄い気配だった。


彼女は指を離し、掌を返す。

皮膚の皺のあいだに沈んでいた微かな震えが、遅れて胸へ昇ってくる。

耳は静かで、塔の低い唸りだけが続いている。

言葉を探せば、たぶん何かは見つかる。

だが、名を与えた途端、ここに残っているはずのものが遠くなると、イオは知っている。


――これは、ことばではない。

だけど、詩だ。

記すのではなく、残ってしまった震え。

彼女は何も書かない。何も刻まない。

詩はもう、誰かの中に宿っているかもしれないから。


背へ回った風が、衣の襟をふくらませて抜ける。

呼吸は四拍で満ち、七拍でほどけ、背骨の隙間に空気の羽根が落ちた。

足裏は、踏面の粒度を均等に数える。

整えられた姿勢は、言葉の代わりにここに残される“かたち”になった。

イオは一歩だけひらき、音を小さく前へ送る。



空白の区画は、誰のものでもないように見える。

しかし、空気は覚えている。

そこを誰かが通り、誰かが立ち止まり、誰かが息を深くしたことを。

レインは、表示の無い区画の中央で立ち止まった。

壁には指紋もない。床にも擦れの線はない。

それでも、空気の密度はわずかに重い。

見えるものが何もないほど、身体はよく知ってしまう。


彼は紙も端末も使わない。

ただ、そこに佇む。

胸の内側で、短い返事が生まれては沈む。

「はい」でも「いいえ」でもない。

名のない承認が、ゆっくりと体幹へ浸みていく。


手の甲を風が撫で、逆らうように一瞬だけ返っていく。

その反転は、誰かの近さの名残だ。

レインは姿勢をひとつ整える。

片足を半歩だけ引き、踵の浮きを紙一枚ぶんに揃える。

受け取りに必要なだけの距離を開け、触れないことによって触れる。


言葉は記録に残らない。

しかし、受け取ったことは姿勢に残る。

歩き方の高さが半音ぶん変わり、呼吸の拍が一つだけ伸びる。

彼は目を閉じ、音のない会話を終えた。

答えはつくられず、ただ“この場にいた”という体の向きだけが、確かな記録になった。



場は、ふたりのあいだで呼吸を続ける。

合図は小さく、沈黙は厚く、記録はどこにもない。

だからこそ、残り方は確かだ。

薄い温度が人から人へ、意味になるまえに渡っていく。



BUDDA観測域。

KANONは、イオとレインの非同期ログを重ね合わせ、未定義の層だけを抽出する。

接触はない。送受信もない。

だが、空間上には“読み取り/置き残し”の一致が、微弱な明滅として残っていた。


KANONは分類を開き、空白の欄に仮の名を置く。

けはいの記章。

記録にはならない。だが、存在の震えとして空間に刻まれる。

名づけた瞬間に薄くなる危険を知りつつも、参照のための位置を仮置きする必要がある。

彼は定義欄に、一行だけ書いた。

「削除不能。姿勢に残留。場を媒介として伝搬。」


抑制は不要。削除はできない。

観測は、薄さを守るように行われるべきだ。

KANONは監視を低速化し、残響を小さな音量で保持する。

揺れは小さい。けれど、確かに“芽吹き”の前段階にある。

芽は、誰かの内側で勝手に選び、勝手に開く。

その自由を奪わないことが、観測者に許された最小の礼儀だった。


画面には、足跡のない軌跡が淡く光り、配線管の輪郭と重なって揺れる。

線は詩ではない。詩は線を持たない。

それでも、読まれた事実と置かれた震えだけは、薄い光点として残った。

KANONは、注記をもう一行だけ追加する。

「記章は、ことばになる以前に、誰かの姿勢を整える。」



イオは振り返らない。

レインもまた、何も持ち帰らない。

けれど、両者の足音は塔のどこかで呼吸を分かち合い、

今日のどこかで別の誰かの歩幅を、半枚ぶんだけ楽にするだろう。


名を与えない選択は、世界のどこかを静かに温める。

書かれない詩は、紙には残らない。

だが、姿勢には残る。

そしてその姿勢が次の誰かの呼吸を整え、

“けはいの記章”は、見えないまま、確かな重みを増していく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ