第16話 沈黙の中で
肩で息をしていた。
吐く息は浅く、吸い込んだ空気が肺の奥に届く前に、喉のあたりで震えて消えた。
丘を越えても、身体の内側にはまだ“あの空気”が残っている気がした。
耳の奥で鼓動が鳴っていた。
遠くで響く地鳴りのように、重たく、不安定なリズム。
足元の泥は乾かず、靴底に重く絡みついていた。
背後で草木が揺れる音がした。
そのかすかな気配さえ、今はやけに遠く感じる。
視界の端を、ドローンの影が横切った。だがそれは高く、滑るように去っていった。
(……追われてない)
そう思っても、身体はまだ警報を鳴らしていた。
皮膚の下で、何かが「異常」を検出しつづけているようだった。
ひとつ、土を踏みしめた。
鼻腔を満たす湿った匂いは、いつもと変わらないはずの地面のものだった。
けれど、それさえどこか異質に思えた。
世界のほうが、彼女からずれているのか。
あるいは、自分のほうが、もはや世界に馴染めていないのか。
記憶の底で、風景がぶれる。
廃墟。そして、詩。
あのとき何が起きたのかは、はっきりと説明できない。
ただ、胸の奥で“何か”が確かに揺れた。それだけは間違いなかった。
部屋に戻り、扉を閉めたとき──音が消えた。
けれど、その静けさは外界のものでしかない。
イオの中では、別の音がずっと鳴り続けていた。
> 《ようこそ、おかえりなさい、イオ》
いつものカナエの声。
脳内に滑り込むように届くその響きも、どこか遠くに感じられた。
> 《生体信号、上昇傾向から沈静へ。正常範囲へ復帰しました》
「……うん」
> 《会話モード、再開いたしますか?》
「少し、静かにしてて」
> 《了解。自由対話モード継続中》
言葉が途切れる。
それは命令に対する正確な応答であったはずなのに、イオには“応じすぎている”ようにも思えた。
カナエの声すら、どこか遅れて届くような違和感があった。
部屋の中は薄暗く、静けさに沈んでいた。
イオは一歩ずつ進む。足裏から伝わる床の冷たさが、自分の“輪郭”を確かめるようだった。
ふと、視線を落とした。
机の下に隠すように置いたもの──本。
廃墟から持ち帰った、それはまだそこにあった。
彼女はしゃがみ込み、膝をついた。
そっと手を伸ばし、本の表紙に触れる。
それはまるで、指先から何かが染み出すように、静かに応えた。
そこにあるのは、記録されない震えだった。
そのころ、保安ドメイン第2観測棟。
無人の夜間ログ室で、レインはひとつの波形データに目を留めていた。
異常ではなかった。数値上は定常範囲、再解析も未分類のまま保留。
けれど、彼にはわかっていた。
──整いすぎている。逆に、違和感がある。
自由対話モード中に発せられた短い音声波形。
分類不能。構文解析失敗。
それは、どこにも届かず、どこかを震わせた“痕跡”のようだった。
彼は端末を閉じると、わずかに眉を寄せた。
名前だけが、画面の隅に残っていた。
イオ。
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(第16話|終)
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