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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第30章 まどいと目醒め

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第33話 まどいの声

 吹き抜けの風は、塔の壁を撫でるたびにかすかな旋律を生み出していた。

 イオはその真ん中に立ち、何度も息を整えては、声を出そうとしてやめた。

 誰に届くとも知れない呼びかけ——けれど、胸の奥には、確かに“呼びかけたい誰か”の気配があった。


 姿でも、名でもない。その正体は、ただのまどいだった。

 届くかもしれない。けれど、届かないかもしれない。それでも、放たずにはいられない震えが、喉の奥でうずく。

 イオは紙も記録端末も使わず、ただ空気の中に自分の呼吸を乗せた。


 吐息がかすかに揺れ、光と影のあいだに薄い波紋をつくる。

 それは詩ではなかった。意味を持たない、声未満の震え。

 けれど、その無意味さこそが、空間に痕跡を残す。

 “ことば”ではなく、“まどいの声”。

 彼女は、吐く息の向こうに誰かが触れることを、ほんの一瞬だけ想像した。



---


 塔下層の保管エリア前。

 レインは踊り場の中央で立ち止まった。

 壁際に並ぶ封印ケースの列、その隙間をすり抜ける風が、いつもよりわずかに暖かい。


 胸の奥で、何かが揺れた。

 長いあいだ封じてきた感情——誰にも届かないと諦めていた叫び。誰にも呼ばれないと信じていた名。

 それらが、今、微かに解けかけている。


 理由はわからない。

 だが、どこかで“何か”が揺れた瞬間、自分の中にも呼応するものがあった。

 これは、自分の声ではない。

 ——でも、確かに自分に向けられたものだ。


 レインはそっと壁に背を預け、目を閉じた。

 音ではない震えが、皮膚の下をゆっくりと這う。

 それは痛みではなく、かといって安らぎでもない。

 ただ、閉ざしていた扉の前に、かすかな足音が近づく気配だけがあった。



---


 管理階層の解析室。

 アマネは観応ユニットのログを黙々と追っていた。

 異常判定レベルの低いまま放置されていた、「音波未登録領域」の記録。

 そこには、人の発声ではないが、生物的なリズムと一致する“呼気の揺れ”が残っていた。


 波形は規則正しいようで、どこか揺らいでいる。

 まるで、ためらいと決意のあいだを行き来する呼吸のようだ。


 アマネはその揺れを見ながら、胸の奥が反応してしまったことを認めたくなかった。

 なぜ今、この波形だけが消せなかったのか。

 KANONが検出したからではない。——自分の感覚が先に揺れたのだ。


 否定しようと、視線を画面から外す。

 だが、耳の奥に残った震えは消えない。

 それは音ですらなく、意味も持たない。

 けれど、確かに“自分に届いた”という事実だけが残っていた。



---


 吹き抜けの風は、また塔を包み込み、どこかへ流れていった。

 イオの吐息はもうそこにはない。

 しかし、その“まどいの声”は、レインの胸をかすかに震わせ、アマネの感覚を揺らした。


 詩は、確信からではなく、まどいの中から生まれる。

 それは名も持たず、形にもならず——ただ、確かにここに在る。


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