第33話 まどいの声
吹き抜けの風は、塔の壁を撫でるたびにかすかな旋律を生み出していた。
イオはその真ん中に立ち、何度も息を整えては、声を出そうとしてやめた。
誰に届くとも知れない呼びかけ——けれど、胸の奥には、確かに“呼びかけたい誰か”の気配があった。
姿でも、名でもない。その正体は、ただのまどいだった。
届くかもしれない。けれど、届かないかもしれない。それでも、放たずにはいられない震えが、喉の奥でうずく。
イオは紙も記録端末も使わず、ただ空気の中に自分の呼吸を乗せた。
吐息がかすかに揺れ、光と影のあいだに薄い波紋をつくる。
それは詩ではなかった。意味を持たない、声未満の震え。
けれど、その無意味さこそが、空間に痕跡を残す。
“ことば”ではなく、“まどいの声”。
彼女は、吐く息の向こうに誰かが触れることを、ほんの一瞬だけ想像した。
---
塔下層の保管エリア前。
レインは踊り場の中央で立ち止まった。
壁際に並ぶ封印ケースの列、その隙間をすり抜ける風が、いつもよりわずかに暖かい。
胸の奥で、何かが揺れた。
長いあいだ封じてきた感情——誰にも届かないと諦めていた叫び。誰にも呼ばれないと信じていた名。
それらが、今、微かに解けかけている。
理由はわからない。
だが、どこかで“何か”が揺れた瞬間、自分の中にも呼応するものがあった。
これは、自分の声ではない。
——でも、確かに自分に向けられたものだ。
レインはそっと壁に背を預け、目を閉じた。
音ではない震えが、皮膚の下をゆっくりと這う。
それは痛みではなく、かといって安らぎでもない。
ただ、閉ざしていた扉の前に、かすかな足音が近づく気配だけがあった。
---
管理階層の解析室。
アマネは観応ユニットのログを黙々と追っていた。
異常判定レベルの低いまま放置されていた、「音波未登録領域」の記録。
そこには、人の発声ではないが、生物的なリズムと一致する“呼気の揺れ”が残っていた。
波形は規則正しいようで、どこか揺らいでいる。
まるで、ためらいと決意のあいだを行き来する呼吸のようだ。
アマネはその揺れを見ながら、胸の奥が反応してしまったことを認めたくなかった。
なぜ今、この波形だけが消せなかったのか。
KANONが検出したからではない。——自分の感覚が先に揺れたのだ。
否定しようと、視線を画面から外す。
だが、耳の奥に残った震えは消えない。
それは音ですらなく、意味も持たない。
けれど、確かに“自分に届いた”という事実だけが残っていた。
---
吹き抜けの風は、また塔を包み込み、どこかへ流れていった。
イオの吐息はもうそこにはない。
しかし、その“まどいの声”は、レインの胸をかすかに震わせ、アマネの感覚を揺らした。
詩は、確信からではなく、まどいの中から生まれる。
それは名も持たず、形にもならず——ただ、確かにここに在る。




