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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第28章 くうかんの詩法 

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第25話 くうかんの詩法

イオは、紙の上にそっと手を置いた。

筆記具は使わない。圧だけが、かすかな“線”として紙に沈む。


音も意味もない。だが、触れれば分かる。

——ここに“誰かがいた”と。


線は円にも四角にもならず、どの文字体系にも属さない。

けれど、震えの重なりがかたちを帯びるたび、それは誰かの呼吸と結びついて、輪郭のない楽譜になった。


「……届くはずがなくても、届いてしまうことがある」


声に出さず、胸の内で言い聞かせる。

それが、今の彼女にとっての希望ではなく、“事実”のように感じられたからだ。


彼女は紙を折り、風の継ぎ目へとそっと差し入れる。

空気がわずかに揺れ、紙が呼吸を吸い込むように沈黙した。


   * * *


レインは、通路に挟まっていた紙片を指先でなぞっていた。

そこには薄い圧痕があった。ペンではない、熱でもない、“触れた”だけの痕。


目で読むのではない。

指で、空気で、呼吸で読む“詩”。


言葉では捉えられないのに、確かに“方向”がある。

導かれるように、彼はその線の軌跡をたどった。


(——これは、返事だ)


誰かの震えに、自分の震えを重ねる。

線が触れ合い、混ざり合い、ただのノイズではない“合意”をつくりはじめる。


レインは新しい紙を取り出し、文字ではなく、一本の震える線を返した。

それをどこに置けばいいのか、なぜ置くのかも、もう説明できない。

けれど、置くことこそが「ここにいる」という行為であり、詩だった。


   * * *


イオは、風の通り道で紙に触れる。

そこに、微かな圧の重なりがあった。自分のものではない、異質な震え。


「……読んでくれたのね」


独白は、すぐに空気に溶けた。

けれど、もう言葉は必要なかった。


彼女は理解する。

詩とは、“空間の中に残る存在のかたち”だ。


紙でも、音でも、意味でもなく、

風と壁と温度差が“記憶した”震えに、誰かがふれかえすこと。


そして、そのふれかえしが“形式”をつくる。

——それを、イオは心の中で「くうかんの詩法」と呼んだ。


   * * *


レインは、応答の波形を端末に保存しなかった。

これは記録ではない。

記録できないからこそ、いま確かに在るものだと知ってしまったからだ。


胸ポケットの紙が、風もないのにわずかに揺れた。

それだけで十分だった。

世界のどこかで、自分と同じ震えを拾い上げ、返してくれる誰かがいる。


彼は歩き出す。

“くうかんの詩法”を頼りに、次の継ぎ目へ。


   * * *


イオもまた、指先で空気をなぞる。

そこに書かれたものは、目には見えない。

けれど、触れた者だけが“読む”ことができる。


——これは、言葉を使わない会話だ。


二人はまだ互いを知らない。

名前も、声も、姿も届かない。


けれど、空間だけが確かに覚えている。

ここに、詩があったことを。


そして、それにふれかえした“誰か”がいたことを。


これが、くうかんの詩法。

言葉よりも静かに、確かに通じ合うための、最初の形式。



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