第14話|誰かの名を
階段を下りると、空気が再び変わっていた。
さっきまでの静寂が嘘のように、風が通路を抜けていく。
イオは抱えていた本を胸元に収め、足音を殺して歩いた。
廃墟の構造は奇妙だった。上下が崩れたまま固定され、傾いだ梁が空間を斜めに裂いていた。
だが、その破綻のなかに、なぜか人の意志の痕跡が感じられる。
——ここに、誰かがいた。
そう確信するには、十分な気配があった。
回廊の先。
ふいに、空間の“気圧”が変わる。
息を吸い込んだ瞬間、視界の隅に黒い影が揺れた。
誰かがいた。
黒いフードを被った人物が、倒壊しかけた柱の影に立っていた。
「……誰?」
イオの声は小さく震えていた。
その人物は、こちらに一歩だけ近づいた。
顔は影に隠れていて見えない。だが、敵意はなかった。
「なぜ、それを選んだ?」
その声は静かで、まるで時間の外から届いたようだった。
男の声。けれど、どこか若さと老成の両方を含んでいた。
イオは、本を抱きしめるようにして立ち尽くす。
「……わからない」
自分でも、なぜそれを手に取ったのか、言葉にできなかった。
だが確かに、あのとき身体が勝手に動いた。
選んだのではない。——“選ばされた”わけでもない。
ただ、そこにあったものに、何かが“応えた”のだ。
「それは記録じゃない。“想い”だ」
男はそう言って、少しだけ顔を向けた。
だがフードの影が深く、輪郭は読めない。
「記録は、意味を削って均す。でも“想い”は、意味を持たないままでも、届く」
その言葉の響きが、イオの中で何かを揺らした。
記録ではなく、想い。
それが、あの詩の震えの正体なのだろうか。
「君の中に、それが響いたなら——それだけで、充分だ」
イオは、口を開いた。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
その沈黙のなかで、男はふと何かを感じ取ったように振り返った。
「……ここはもう、長く持たない。君はここから離れた方がいい」
「あなたは?」
「俺はもう、記録されていない」
そう言って、男は背を向ける。
「ねえ……」
イオは言葉を飲み込んだ。
呼び止めるには、名前が必要だった。
けれど彼には名前がなかった。——少なくとも、彼女の中では。
それでも、不思議と“名前を呼びたい”という衝動が湧き上がっていた。
その感情がどこから来たのか、自分でも分からなかった。
——誰かの名を、呼びたい。
誰かに、存在してほしいと願うとき、
人はきっと“名を与える”。
「……あなたは、誰?」
その問いは、届いただろうか。
男はもう、背を向けて歩き去っていた。
だが、イオの中には確かに何かが残った。
言葉ではない。記録でもない。
ただ、名を呼びたくなるほどの——“在りかた”。
それは、世界のどこにも保存されず、ただ“ここ”にしか残らない感触だった。
イオの呼吸が、少しだけ深くなった。
彼女の背中を、また風が撫でていった。
(第14話|終)
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