第12話 読むことのできない詩
イオは床に座ったまま、手の中の紙片を見つめていた。
紙は薄く、指の熱をわずかに吸い取っていく。
そこに記されているのは、言葉にはならない走り書き。
「の」「と」「え」——単語にならない文字の断片が、点在している。
途中でやめた線。思いつくまま並べたようなひらがな。
そして、崩れた曲線の集まり。
——意味はない。
それは明らかだった。
読むことはできないし、読む必要もなかった。
けれどイオにはわかった。
これは、「読むため」の詩ではない。
「残るため」に書かれた詩なのだ。
声に出さず、彼女はゆっくりと紙面に指を沿わせた。
文字の形をなぞるのではない。震えそのものに触れるように。
かすかに空気が動いた気がした。
紙がふるりと揺れる。
風はなかった。
でも、彼女の指の動きに、紙が“応えた”ように思えた。
(これが……わたしの声だったのか)
意味を持たない。それでも確かにそこにある。
彼女は手元の紙束から、白紙を一枚取り出した。
そして、今の自分の指の震えをなぞるようにして、筆記具を使わずに描き始めた。
ただの線。形にならない曲がり。
それは、読み取ることも解釈することもできない。
けれど、それは確かに——“イオ自身の今”だった。
過去の走り書きと、今の紙を並べてみる。
まるで、二つの記章が互いに呼応し合うような錯覚があった。
過去の自分から届いたものを、今の自分が重ね返す。
声にはしない。ただ、触れる。
詩は伝えるためにあるのではない。
詩は、生きていたという証を“のこす”ものだ。
そのころ——非記録区の整備フロア。
αは作業用の帳票を整理していた。
端末に向かいながら、手元の空白スペースに、何気なくペンを走らせる。
規定の記録内容には関係のない、ただの手癖。
気に留めることもなかった。
いつもなら、用が済めば破棄していたはずの紙。
けれど今日、彼はその走り書きを見つめたまま、しばらく動けなくなった。
ぐにゃりと曲がった一本の線。
意味はない。だが——どこかで“見たことがある”。
記憶ではない。
でも、身体のどこかが“これを知っている”と告げていた。
(……なんだ、この形)
彼はそのまま紙を破ることもせず、机の端に置き直した。
ほんの偶然のはずだった。
だが、そこには確かに、過去のイオの走り書きに酷似した“震え”が重なっていた。
知らないはずのものを、なぞってしまうこと。
それは、名前を持たない共鳴のはじまりだった。




