第13話|声を知る
イオは本を抱えたまま、崩れかけた階段をそろそろと上っていく。
足元には瓦礫が積もり、壁には火災の痕が薄く残っていた。
かつてここは、誰かが情報に触れ、考え、記していた場所だったのだろう。
だが今は、すべてが沈黙のなかにある。
一段、また一段。
埃が靴裏から舞い上がる。
そして踊り場の奥、わずかに開かれた扉の先に、それはあった。
断線したケーブルが天井から垂れ下がり、机が一つ、朽ちかけたまま残されていた。
イオはその机に、本をそっと置いた。
さっき見つけたその一冊。抱きしめるようにして持ってきたそれを、今あらためて開く。
埃を払う指先が、微かに震えていることに、イオは気づかなかった。
文字は、今の標準言語とは異なっていた。
それでも、その配置と間、墨の濃淡、ページの呼吸のような静けさが、彼女の内側に触れてくる。
ページをめくる。
一節が目に留まる。
> 「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の
ながながし夜を ひとりかも寝む」
意味はわからなかった。
けれど、その言葉は、音ではなく震えとして身体に染み込んできた。
——詩だ。
そう思った瞬間、背中に鳥肌が立った。
これは「情報」ではない。
「記録」でも、「知識」でも、「命令」でもない。
——では、これは?
胸の奥がきゅっと締めつけられ、視界が揺れる。
両目の奥が熱を帯び、涙がにじむ。
感情制御が効かない。
それほどの強さで、何かが、イオの内側を揺らしていた。
「カナエ……なにか……」
言いかけたが、カナエは応えなかった。
ノイズ。あるいは、沈黙。
そのどちらともとれる“何か”が、イオを包んでいた。
“声”——それは、誰かが残した言葉ではない。
誰かがこの世界に“触れようとした”痕跡。
それを、自分の中に受け入れてしまったことに、イオは気づく。
涙が一粒、頬を伝って落ちた。
制御できないそれは、誰にも見られることなく、音もなく床へ落ちた。
「声って……こんなふうに……響くの……?」
言葉は誰に向けたものでもなかった。
けれど、それを口に出すことで、胸の内に渦巻いていた何かが、少しだけ形になった気がした。
それは、イオが初めて“自分の声”を認識した瞬間だった。
ページの端に、誰かの書き込みが残されていた。
細く、震えるような筆致。現代文字で、こう記されていた。
> 「この詩は、記録されない。
けれど、届くと信じている」
イオは静かに本を閉じた。
その重みが、なぜか胸に似ていた。
遠くで、何かが動く音がした。
——誰かが来る。
だが、恐怖ではなかった。
今の彼女には、ようやく“何かを守りたい”という輪郭が生まれていた。
(第13話|終)
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