第8話 沈黙の呼びかけ
レインは巡回任務を終えたあと、なぜか決められたルートを外れて歩いていた。
命令があったわけではない。
だが、どこか引き寄せられるように——まるで“呼ばれている”かのように、足が自然と塔の外縁部へ向かっていた。
この区画は使用頻度が低く、人の往来もほとんどない。
通路の片隅には古い通気孔が並び、そこから微かな風が流れ込んでくる。
彼は立ち止まり、その風を顔で受け止めた。
(……ここだ)
確信はなかった。ただ、何かが“ここにある”と感じただけ。
風の中に、わずかに混じる震え。耳には聴こえないが、確かに空気が揺れた気がした。
言葉ではない。
けれど、それはまるで誰かが名を呼ぶ前の“息”のようだった。
「誰かが……ここで何かを、残した?」
そう呟いた声も、風に流れて消えていく。
応答はない。だが、沈黙は静かな返事のようでもあった。
それは“気配”だった。
イオはそのころ、古文閲覧層の隅で、一枚の薄い竹の短冊を取り出していた。
そこに筆記具を使わず、指先でゆっくりと線をなぞっていく。
音符でも文字でもない。
それは、昔吹いた笛の指使いを記号のように記したもの。
再現も演奏もできない。ただ構造だけを封じた詩だった。
音を出さない笛の譜面。
けれどその動きが、彼女の中では確かに“音”を生み出していた。
(声にしないほうが、届くことがある)
それは、ここに来てから幾度も感じたことだった。
意味を越え、言葉を捨て、ただ震えだけが残るとき。
その揺らぎは、誰かの心に触れる可能性を持っている。
イオは短冊をそっと閉じ、風の流れに沿って床の片隅へ置いた。
そのとき——
塔の外縁、レインの端末にわずかなノイズが走った。
「……?」
彼は画面を確認するが、数値は正常のまま。
エラーもアラートも出ていない。
けれど確かに、今、何かが“触れた”と彼の身体は感じていた。
端末の操作面に指を伸ばすも、その感触はどこか違う。
数値やデータでは測れない“何か”が、今ここにあった。
レインはゆっくりと辺りを見渡す。
通路の先、誰もいないはずの空間を、じっと見つめる。
「……誰か、いるのか?」
声にしてから、自分でもその問いに驚いた。
答えはない。けれど、その沈黙がまるで「ここにいる」とでも言っているようだった。
名も、顔も、記録も残っていない。
けれど、それでも——確かに誰かが“何か”を遺していった。
その“遺されたもの”に反応したのは、システムではない。
彼の身体だった。感覚だった。
その反響が意味を持つには、まだ少し時間がかかるかもしれない。
だが、確実に“何か”が始まりつつある。
静かな、沈黙の呼びかけ。
そして、遠くからそれに応えるような震え。
イオは目を閉じ、その流れを受け止めていた。
レインが気づいていないとしても、それでいい。
この震えは、きっと届く。
名前を持たない詩が、言葉を超えて、いま静かに響きはじめている。




