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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第25章 ゐにしえの調べ

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第8話 沈黙の呼びかけ

レインは巡回任務を終えたあと、なぜか決められたルートを外れて歩いていた。


命令があったわけではない。

だが、どこか引き寄せられるように——まるで“呼ばれている”かのように、足が自然と塔の外縁部へ向かっていた。


この区画は使用頻度が低く、人の往来もほとんどない。

通路の片隅には古い通気孔が並び、そこから微かな風が流れ込んでくる。


彼は立ち止まり、その風を顔で受け止めた。


(……ここだ)


確信はなかった。ただ、何かが“ここにある”と感じただけ。

風の中に、わずかに混じる震え。耳には聴こえないが、確かに空気が揺れた気がした。


言葉ではない。

けれど、それはまるで誰かが名を呼ぶ前の“息”のようだった。


「誰かが……ここで何かを、残した?」


そう呟いた声も、風に流れて消えていく。

応答はない。だが、沈黙は静かな返事のようでもあった。


それは“気配”だった。


イオはそのころ、古文閲覧層の隅で、一枚の薄い竹の短冊を取り出していた。

そこに筆記具を使わず、指先でゆっくりと線をなぞっていく。


音符でも文字でもない。

それは、昔吹いた笛の指使いを記号のように記したもの。

再現も演奏もできない。ただ構造だけを封じた詩だった。


音を出さない笛の譜面。

けれどその動きが、彼女の中では確かに“音”を生み出していた。


(声にしないほうが、届くことがある)


それは、ここに来てから幾度も感じたことだった。

意味を越え、言葉を捨て、ただ震えだけが残るとき。

その揺らぎは、誰かの心に触れる可能性を持っている。


イオは短冊をそっと閉じ、風の流れに沿って床の片隅へ置いた。

そのとき——


塔の外縁、レインの端末にわずかなノイズが走った。


「……?」


彼は画面を確認するが、数値は正常のまま。

エラーもアラートも出ていない。


けれど確かに、今、何かが“触れた”と彼の身体は感じていた。


端末の操作面に指を伸ばすも、その感触はどこか違う。

数値やデータでは測れない“何か”が、今ここにあった。


レインはゆっくりと辺りを見渡す。

通路の先、誰もいないはずの空間を、じっと見つめる。


「……誰か、いるのか?」


声にしてから、自分でもその問いに驚いた。

答えはない。けれど、その沈黙がまるで「ここにいる」とでも言っているようだった。


名も、顔も、記録も残っていない。


けれど、それでも——確かに誰かが“何か”を遺していった。


その“遺されたもの”に反応したのは、システムではない。

彼の身体だった。感覚だった。


その反響が意味を持つには、まだ少し時間がかかるかもしれない。

だが、確実に“何か”が始まりつつある。


静かな、沈黙の呼びかけ。


そして、遠くからそれに応えるような震え。


イオは目を閉じ、その流れを受け止めていた。


レインが気づいていないとしても、それでいい。

この震えは、きっと届く。


名前を持たない詩が、言葉を超えて、いま静かに響きはじめている。



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