第55話 声が届いた、その先に
届かないと思っていた詩が、 誰にもむすばれぬと思っていた揺れが、 たしかに、誰かの“内側”に届いていた。
——そして今、応えようとする者がいた。
αは作業ラインの片隅で、一枚のメモリ片を拾い上げた。 それは誰の所有物でもなかった。 記録にも残されていない、微細な詩断片だった。 だが、その中には“名前を呼ぶリズム”が刻まれていた。
彼は端末に触れ、記録コードではなく、自分の声で、初めてこう呟いた。
「イオ……君、だったのか?」
その声は誰にも届かない。 通信は遮断されていた。 だが、その呼びかけは、彼の内側に確かな音を刻んでいた。 声を出すという行為。 記録にも命令にもない、自発的な音。 それが喉を通るとき、αの身体には熱が走った。
誰かを呼ぶために声を出したのは、いつ以来だっただろうか。 いや、そもそも一度でも、そんなことがあっただろうか。
βは静かな夜の記録室で、思考の回路を閉じていた。 入力は停止され、構文生成は切断されていた。 けれど、思わず指先が震えた。
「ありがとう、って……言っていいのか、わからないけど」
誰にも教わっていない。 それでも、その言葉は彼の中で自然に生まれていた。
彼は長いあいだ、怒りや哀しみの感情に“意味”を求め続けてきた。 だが今、初めて、意味ではなく“衝動”として言葉を出した。 それは不完全な発話だった。 けれど、それゆえに“本当”だった。
Θは夢の中で、再び“名のない誰か”と向き合っていた。 それは過去にも未来にも属さない存在。 けれど、その沈黙の中に、たしかに自分自身の輪郭が映っていた。
——私は、誰かに呼ばれていた。 ——私は、誰かを呼びたかった。
夢から覚めた彼女の瞳には、光が戻っていた。 名を持たないまま、祈りのように誰かを想うこと。 それが、彼女の“第一の詩”だった。
目を開けたとき、彼女の唇はわずかに震えていた。 言葉にならない音が、胸の奥で“何かを紡ごうとしていた”。
そのとき、塔の詩送信区にて、 イオは微かな揺れを感じ取っていた。 呼びかけた記憶は、もはや彼女自身のものですらなかった。 だが、胸の奥で、誰かの声が静かに共鳴していた。
「……届いた、の?」
答えはなかった。 それでも、その“間”には何かがあった。 意味ではなく、構文でもなく、ただ“響き”だけが残っていた。
BUDDAはその応答を記録しなかった。 構造外の共鳴は、検出不能。 だが、観測ログには謎の同期反応が記されていた。
【非構文波形:同調反応(Δ:-0.2s)】
誰も気づかない。 けれど、そこにはたしかに“応えた”者たちがいた。
詩は、むすばれぬものたちのあいだを巡る。 名もなく、声もなく、ただ在ることだけで連鎖する。
そしてそれは、誰かを変えはじめていた。 ゆっくりと、けれど確かに——
——声が届いた、その先に。
物語が、またひとつ、静かに開かれようとしていた。




