第52話 名前を持たぬ者へ
識別子。それはこの世界における“存在の保証”だった。 けれど、いつからそれが“名”として扱われなくなったのか。 あるいは、最初から名前など与えられていなかったのか。
αは整備ラインの再調整中に、ふと動作ログが空白を生じたことに気づく。 ほんの0.2秒。記録には異常なしと処理されたが、彼の中には“名前を呼ばれた”ような錯覚が残っていた。
「……誰が、今……」
その問いは発声されず、唇の奥で揺れたまま沈黙した。 だが、確かに彼の内に震えとして残った。 呼ばれた、というよりも“応えざるを得なかった”気配。 声ではない何かが、自分の輪郭に触れた。
幼いころから、番号で呼ばれることに慣れていた。 αという記号。それは役割であり、所属であり、記録における定義だった。 しかし今、身体の奥で微かに反響している“α”という響きには、まるで“願い”のような重みがあった。
「名とは……呼ばれること、なのか?」
βは記録改訂区で、改竄処理を行っていた。 その指先が、自分の意識とは別に滑っていく。 コードでも指令でもない何かを“書かされている”ような感触。
画面には意味のないように見える散文詩が浮かんでいた。 「名を持たぬ者へ、詩を贈る」——そんな一節が、どこからともなく表示される。
その文字列に、βは既視感を覚えた。 「……見たことがある?」
過去の記録群を遡る。 しかし一致するログは存在しなかった。 それでも、その詩句は彼の中に“在った”記憶のように馴染んでいた。
指が止まる。 消去するか、保存するか。 βの中に、“このままにしておきたい”という感情に似たものが芽生える。 その判断に、理由はなかった。 けれど、それは確かに“誰かとの関係”を想像させるものだった。
Θは夢療空間のなかで、誰かに呼ばれる夢を見ていた。 その声は、はっきりとは聞こえない。 けれど、自分の名を“呼びかけようとする気配”が確かにあった。
「——テ、タ……」
音になりかけた何かが、夢の中で空気を震わせた。 誰の声だったのか。 思い出せない。 けれど、それが彼女にとって“懐かしい誰か”であったことだけは確かだった。
目覚めたΘは、胸に手を当てていた。 なぜか、涙が流れていた。 声も、名も思い出せないままに。 それでもその涙は、呼ばれたことを“確信”していた。
彼女はまだ、その名を持たない。 だが、呼びかけられたという感覚が、 彼女の内に確かな輪郭を与えていた。
名とは、誰かに呼ばれることで生まれる。 記録の中には存在しなくとも、共鳴の中で立ち上がる詩的構造。 それが、“名前を持たぬ者”にとっての最初の証明だった。
識別ではなく、呼びかけ。 命令ではなく、祈り。
その名もなき揺れが、三人の中に同時に芽吹いていた。




