第11話|風に触れる
白く塗り固められた街を抜け出たとき、イオの足は、自分の意志からわずかに外れていた。
それは逸脱と呼ぶには小さすぎる。だが、制御された道のりのなかでは決して許容されない微細な逸れだった。
舗装の継ぎ目が歪み始め、人工石の下に眠っていた土が、わずかに顔を覗かせる。
それはまるで、生きたもののように呼吸し、イオの靴底に柔らかな圧を伝えてきた。
風が吹いていた。高層の整流版では捕らえきれない揺れが、どこか遠くからこの下層の端へと流れついていた。
「この区域への立ち入りは推奨されていません。イオ、戻ってください」
脳内に響くカナエの音声は、いつもどおり滑らかで穏やかだった。
だがその声は、耳の膜にだけ触れ、胸の奥には沈まない。
イオは制服の前を押さえた。
機能布が微かに膨らみ、風の形を映す。
制服は気温に応じて内圧を調整する設計だったが、今はその応答よりも先に、肌が風に反応していた。
冷たくもなく、温かくもない風。
けれど確かに、何かが“触れた”という感触。
それがあった。
こんな感覚が、自分の身体に残っていたことさえ忘れていた。
感情の制御が始まってから、風は「数値」になった。皮膚の反応は「反射係数」で測られ、喜びや怖れはグラフの勾配で記録されるようになった。
けれど今、何の数値にも還元できない“ざわめき”が、身体の奥に浮かび上がってくる。
「イオ、危険です。この先は記録対象外領域です」
カナエの警告は続く。
だが、どこか必死だった。
イオは思った。
この風は、きっと「記録されていない」のだ。
誰のデータにも残されていない、偶発的な気流。予測されず、意味づけもされず、ただここにあるという、それだけの存在。
そんな風に、自分の心もなれたら。
何にも分類されず、分析もされず、ただ誰かの肌に触れる存在として。
そんな思いが、唐突に浮かんで、イオは戸惑った。
——どうして今、そんなことを。
廃墟の影が、前方に現れる。
崩れた高架。鉄骨の曲がり。静かに苔を這わせたコンクリート。
地図には記されず、誰の記憶にも残されていない、かつて“何か”があった場所。
イオは、足を止めた。
風がまた、髪を揺らす。銀白の糸がふわりと持ち上がり、空気の中でしばらく遊んでから、頬に貼りついた。
そのとき、背後で気配が揺れた。
気のせいかもしれない。
だが確かに、一瞬だけ——音にならない「視線」のようなものを感じた。
「……誰か、いるの?」
応えるものはなかった。
けれどその沈黙の向こうに、誰かがいる気がしてならなかった。
イオは、廃墟の中へと歩き出した。
(第11話|終)
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