第1話|白い箱の目覚め
仄暗い、静止した空間だった。
音はなく、空気は鈍く淀み、光さえ輪郭を持たない。
ゆっくりと、意識が浮かび上がる。
重く沈んでいた身体が、かすかに震え、指先が、冷えた白い床を確かめた。
——起き上がる。
誰かにそう命じられたわけではない。ただ、内側から微かな指令のように、そう感じた。
そのとき、耳の奥で声が響く。
透明な、機械仕立ての優しい声。
> 「ユニットI-07、感情制御補正プロトコル、正常終了。
現在時刻、05:02。
起床を完了し、初期動作を開始してください」
イオは、自分が"ユニット"と呼ばれたことに、奇妙な感触を覚えた。
その名に、どこか遠い響きがあった。
本当は、違う呼び名が、もっとあたたかく、胸の底に沈んでいる気がした。
——イオ。
名前の記憶は、まだ濁った水底に沈んでいた。
周囲を見渡す。
白い。すべてが白かった。
壁も、床も、天井も、わずかな影すら落とさない無機質な白。
無音。無臭。無風。
感覚が、世界から遮断されている。
> 「起立を確認。体温、脈拍、神経応答、すべて基準値以内。
本日予定:感情反応目標値0.02以下を維持。
朝食摂取後、適応プログラムへの参加を指示」
声は続く。
名を持たない声。
しかし、イオは、その声の主が「カナエ」と呼ばれていることを、どこかで知っていた。
いや、教えられたのかもしれない。目覚めるよりも前に。
「カナエ……」
小さく呟くと、胸の奥に微かな波紋が広がった。
そこには、何かがあった。
生まれたばかりの風のような、手を伸ばせば消えてしまう震え。
イオは立ち上がり、カナエの指示に従う。
白い壁の一部が、静かに滑るように開き、薄い光が差し込んだ。
その瞬間だった。
ほんのわずか、頬を撫でる気配があった。
——風?
そんなもの、この空間には存在しないはずだった。
けれど、確かに、イオはそれを感じた。
無記録の、世界の震え。
それは、感情制御の網の目からすり抜ける、最初の微細な逸脱だった。
切り替わる、場面。
中層——実働ドメイン。
制御センターのディスプレイに、警告が灯る。
【感情偏差:閾値超過傾向検出】
レインは眉をひそめた。
保安官である彼にとって、異常値はただの数字に過ぎない。
だが、その数字の裏に、何か見えない波が蠢いていることを、彼は本能で感じ取った。
> 「第9生活圏に、逸脱傾向発生。調査を命ずる」
無機質な通達。
レインは小さく息を吐き、装備を確認する。
また、"風"が吹き始めた。
あの誰にも見えない、記録されない、危うい震えが。
さらに、視点は深層へ。
非記録区、廃れた通信ノードの奥。
そこに潜む者たち——レジスタンス、Refrain。
白い箱の奥で生まれた、かすかな共鳴の揺れを、彼らは微かに察知していた。
ジンは、静かに目を閉じた。
誰にも気づかれぬ小さな波紋が、世界に広がり始めている。
——兆しは、確かに生まれた。
誰にも記録されないまま、
誰にも制御されないまま、
静かに、しかし確実に。
そして——
イオの中で、まだ言葉にもならない小さな問いが芽吹きかけていた。
「……わたしは、誰?」
白い箱の中で、目覚めたばかりの存在が、
まだ見ぬ朝へと、静かに手を伸ばしていた。
(第1話|終)
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