無表情な老人
「あ、ボス」
そう声を発した少女――和泉佳尾の前に現れたのは、初老の老人だった。
背後に三人の屈強な黒服男を従えたその老人は、この立派な『犯罪組織』の拠点たるビルの廊下で明らかに場違いな佳尾を見ても、訝しがる事なく言葉を返す。
「久しぶりだね、佳尾君。頼んでいた仕事は順調かな?」
声は穏やかなのに、そこからはあからさまな程の不気味さが感じ取れる。
老人は深く刻まれた数多いシワを微々たりとも動かさず、まるで傀儡のように唇のみを動かしていた。同じく無表情な黒服達と相まって、そこには一般人ならばすぐに逃げ出したくなるような空気が出来上がっていた。
だが佳尾の方は特に気にしていないようで、そのままニコリと笑顔を返した。
「だいじょーぶ、順調順調! 私たち、もうその辺のカップルなんて目じゃないってくらい仲いーんですよ?」
彼女の言葉からはまるで親しい友人とお喋りでも始めるかのような気安さすら感じられる。老人の、次の言葉が無ければだが。
「それは良かった。一刻も早く、あの魔獣にはこの組織の立派な兵器となってもらわねばならないからな。しかし《あれ》が元人間とは……全く、魔王の力とは恐ろしい。だがそれを全て吸い込んでおいて姿が変わっただけで済んだ彼も、大概普通ではなかったようだが……流石は二百五十五の任務を身一つでこなし切った●●●君、といったところか」
その言葉に初めて佳尾は笑顔を崩し、反論した。
「もう、ボスってば。●●●じゃありませんよ、月影ですうっ」
頬を膨らませて怒る佳尾に、老人は微笑ましそうな声で――しかし表情は相変わらず無いまま――彼女をなだめた。
「ああ、そうだったな。彼の《闇》たる君が付けた、大事な名だ。もう彼は●●●君ではない……しかし●●●君は警察のスパイだったとはいえ、十分過ぎる程組織に尽くしてくれた。警察に脅しのネタにされていた過去の恥は、私が揉み消しておいてやろう……そう、月影にも伝えておいてくれ。まだ、その位の理解力は残っているのだろう?」
「残ってません!!」
佳尾の一瞬の否定に、老人を始め黒服達までが唖然とした。
「だって、他の人の言葉を理解しちゃったら私に頼ってくれなくなっちゃうじゃないですか。だから生きるのに最低限必要な記憶以外は、ぜーんぶ消しちゃいました!」
事も無げに言ってのける佳尾に、黒服の一人が詰め寄った。
「ばっ、馬鹿か貴様は!首輪に込められた精神掌握の呪は、名の通りそいつの精神を掴む事で成り立っているのだぞ!? 全てを忘れるという事は、その掴む精神が無くなるということだ! そうなると、またあの時のように理性を失って……今度は、誰にも止められなくなってしまうぞ!」
狼狽した黒服の一人がまくし立てる。だが佳尾は首を傾げ、男が何を慌てているのか分からないという事を示した。
「別に、何も起こってないわよ? むしろ怯えて外にも出ようとしないんだもん」
その言葉に老人は眉をひそめた。
「……月影はどこだ」