第15話 一色義龍の罠
岩倉織田家を滅ぼし、尾張の大半を手中に収めたノブナガは、ついに尾張統一を果たした。だが、その勝利は新たな敵を引き寄せることとなった。
駿河国の今川義元は、遠江国と三河国を支配下に置き、着々と尾張侵攻の準備を進めていた。
一方、美濃国の斎藤義龍は、13代将軍足利義輝に謁見し、一色姓への改名を許され、幕府公認の大名となっていた。そして京への上洛と偽ってノブナガを美濃国へ誘き寄せ、道中で暗殺しようと画策していたのである。
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永禄2年(1559年)、美濃国・稲葉山城。
義龍は重臣の日根野弘就から足利義輝の筆に似せて作成した偽の御内書を受け取り、それを目にして満足げだった。
「ほう、これが偽の御内書か。さすが右筆衆、見事な写しだ。これならノブナガも騙されて上洛するに違いない──早速、この御内書を尾張に届けよ」
「はい……。しかし上洛するとしてノブナガは、この美濃を本当に通るのでございますか?」
弘就の疑問に対して、義龍はニヤリと薄笑いを浮かべて答えた。
「ああ、通るとも。何でも親父殿はノブナガと妹宛に、この美濃を譲るという書状を遺したそうではないか。ならば、それを口実にノブナガは必ずここを通って上洛する筈だ」
この時代、尾張から京へ行くには美濃、伊勢、近江、伊賀、いずれかの国を通らなければならない。しかも、どのルートも何らかの危険を伴っていた。その中でも、亡き斎藤道三がノブナガと帰蝶に宛てた国譲りの書状の効果により、おいそれと手出しができない美濃国ルートを選択すると義龍は確信していた。
「なるほど! では、早速この御内書を尾張に届け、我が領内で捕らえる準備を」
「いや……待て」
弘就が立ち去ろうとした時、義龍が引き止め、見かけない1丁の鉄砲を差し出してきた。
「お館様……これは?」
「これは尾張から密かに手に入れた散式火縄銃というものだ。これで、ノブナガの命を奪え」
「はい? それでは、比叡山にいる者との約束が違うのでは?」
「所詮、奴らとは口約束を交わしただけのこと。こちらは、一国を争う戦をしているのだぞ! わしの命に従って、さっさと支度をせんかぁ!」
義龍は機嫌が悪くなったようで、大広間から立ち去ってしまった。ひとり残された弘就は戸惑いながらも美濃衆の平美作を呼び、刺客の人選と指揮を任せた。それから自身の判断で、比叡山にいる謎の僧侶宛に計画がノブナガ捕獲から暗殺に変わったことを文にして送った。
このことが後に、義龍の命を脅かすこととは知らずに……。
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尾張国・清州城。
京から上洛の御内書が届いたことで、ノブナガは重臣でもある沢彦宗恩を政秀寺から呼び出していた。
「なあ、タク。この御内書というのに書いてある上洛について、どう思うよ?」
「尾張をほぼ平定したとはいえ、まだ一大名に過ぎないですから、将軍様に拝謁して、新しい統治者と認めてもらう良い機会かもしれませんね」
「そうだな──オレも、これはチャンスだと思うぜ! で、どうやって上洛するんだ?」
ノブナガの声には、期待と興奮が混じっていた。
「そうですねぇ……上洛するなら、美濃国を通って行くのが最善でしょう。こちらには道三殿が遺した国譲りの書状がありますし、義龍殿も迂闊に手を出してこない筈です」
「よし、それなら堂々と美濃を横切ってやろうぜ!」
こうしてノブナガは、京を目指して上洛することになった。それが一色義龍の罠とは知らずに……。
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美濃国領内の山道で、ノブナガの命を狙う平美作は、刺客と草陰に身を潜めていた。数日前、尾張国からの使者が美濃国の通行許可を求めに来たとき、上洛の日程を伝えていたのだった。
しばらく待っていると、ノブナガが僅かな供を連れ現われたので、美作は刺客に囁いた。
「手筈通り、一行が通り過ぎてから、あの男の背後を狙って撃て──抜かるなよ」
刺客は黙って頷き、散式火縄銃を構えた。それを確認した美作は、木の陰に移動して様子を見ていた。
やがて、ノブナガ一行が通過し、うしろ姿が見えたところで刺客は山道に飛び出し、背後を狙って引き金を引いた。すると──ボンという鈍い音とともに血飛沫が宙を舞い、刺客がその場に倒れた。どうやら、銃が暴発してしまったようだった。
ノブナガ一行が音の方向に振り向いたとき、護衛の木下藤吉郎が素早く、様子を見に駆け出して行った。
「サル! 一体、何があったんだ?」
遅れてやってきたノブナガが、顔がぐちゃぐちゃになった無残な死体を横目にして、藤吉郎に尋ねた。
「どうやら、銃が暴発したみたいだね」
藤吉郎が詳しく死体を調べたところ、散式火縄銃に施したロックを外さずに点火し、引き金を引いてしまったのが、暴発の原因だったことをノブナガに説明した。
「こういう時のために、銃に仕掛けをしておいてよかったよ」
藤吉郎は得意げに微笑んだ。
「こいつは何者だ?」
ノブナガは死体をまじまじと見ながら問い掛けた。
「少なくとも尾張の者なら、この銃の扱いは知ってるから、美濃の暗殺者ってとこかな」
「くそっ! 小賢しい真似で、オレを狙いやがって──あの小物野郎め……ひとまず、尾張へ戻るぞ!」
ノブナガは上洛を止め、尾張国へと戻った。藤吉郎が銃に仕掛けを施していたおかげで暗殺は失敗に終わり、逆に義龍が罠にはまる形となってしまった──。
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比叡山・延暦寺。
美濃国から日根野弘就の文が届いたことで、謎の僧侶ふたりが、対座していた。
僧侶E「義龍の奴、独断で計画を変更したとのことだが……」
僧侶A「ああ、暗殺することになったみたいだが……。このまま放っておくのか?」
僧侶E「さすがに、もう勝手なことはさせないさ──既にクラウドを向かわせたよ」
僧侶A「ほう。クラウドを向かわせたということは……」
僧侶E「……そういうことだ」
その後、夜になって、ふたりはノブナガの暗殺失敗を知ったのだった。
一方、ノブナガの暗殺失敗を目の当たりにした平美作は、青ざめた顔で稲葉山城に戻っていた。
「美作よ、大儀であった。ノブナガを討ち取ったか? 最期の様子は? その方、顔を見られていまいな?」
義龍は興奮気味に詰め寄り、美作は恐る恐る顔を上げた。
「そのことにござりまするが……実は……その……」
美作のはっきりしない態度を不審に思い、義龍は声を荒げた。
「美作ッ! もしや、ノブナガを討ち取らずに戻ったのではあるまいな?」
美作は、今にも泣き出しそうな表情で、
「されば……お館様に申し上げます──今頃は、清洲の城へ立ち帰られているかと存じまする」
義龍は怒りに任せて、手に持っていた茶碗を美作めがけて投げつけた。
「この──たわけめが! 退れッ!」
「ははーっ」
美作が去ったあと、義龍は深い溜息をつき、酒を片手に寝室へと消えていった。
──翌朝、重臣の日根野弘就は苦悶の表情を浮かべて死んでいる義龍を発見した。
死因は昨晩、毒を盛られたようで、寝室には義龍が吐いたとみられる血が、白い布団に染み込み、まるで花びらのように散らばっていた。
「このことは、他言無用だ。よいな」
弘就が振り向くと、そこには義龍の息子である龍興が、20歳前の若者には見えない程、冷静な表情で立っていた。
「父上は、流行り病で亡くなられた……それでよいのじゃ……」
龍興は低い声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
しばらくして、義龍の死が公になると美濃国内では、斎藤道三の呪い、尾張国側の陰謀、見知らぬ僧侶を城内で見たなど、さまざまな噂が囁かれていた。
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永禄3年(1560年)、駿河国・駿府城。
今川義元は重臣の庵原元政から美濃での諜報で得た情報に耳を傾けていた。
「ほう。美濃の一色義龍とかいう役立たずが、死んだか……しかも、毒を盛られたとは……大方、尾張の大うつけが裏で手を回したのかのう」
「では、この機に美濃を攻めますか?」
「いや……いま攻めれば、あの小賢しい奴が美濃を囮にして、我らの不意を突くかもしれぬ。まずは我が力を見せつけ、尾張を一気に叩き潰して京へ進む──さて、あの大うつけがどう出るか、見ものじゃのう……くっくっくっ」
義元は不敵な笑みを浮かべて、いよいよ本気で尾張国を狙い定めていた。




