9 インド洋の旭日旗(4)
日本側の目的が英東洋艦隊の撃滅であり、基地航空隊の航続圏外の索敵を行っていたとしたら、恐らく英艦隊と100浬にまで接近する以前に英東洋艦隊を捕捉出来たであろう。
1942年4月5日、コロンボ沖でコーンウォールとドーセットシャーを発見するのが史実では1350時であるから、朝から索敵に努めていればそれ以前の段階でウォースパイト以下を発見出来た可能性は高い。
実際、5日未明の段階で両艦隊の距離は360浬であり、南雲艦隊が積極的に敵艦隊を求めていれば、索敵機の進出距離300浬以内にサマヴィル提督率いる高速部隊を捕捉することが叶っただろう。
史実でサマヴィル提督が日本艦隊発見の報告を受けるのが1530時であるから、もしそれ以前に南雲艦隊が英艦隊を発見していれば、史実セイロン沖海戦のような一方的な海戦になるだろう。
史実コロンボ空襲時の兵力が零戦36機、九九艦爆38機、九七艦攻54機(指揮官は淵田美津雄中佐)であったから、ウォースパイト、フォーミダブル、インドミタブルの3隻を撃沈するのには十分な兵力だったろう。
史実でも第二次攻撃隊が控えていたから、5日が終わる頃には護衛の軽巡エメラルド、エンタープライズも含めて撃沈され、コロンボ沖で発見された重巡コーンウォール、ドーセットシャーも撃沈されて英東洋艦隊高速部隊は壊滅的な被害を受けたことだろう。
4月5日段階では、燃料・真水補給の問題からR級戦艦を中心とする低速部隊はアッズ環礁出撃が高速部隊に比べて一日遅れており、まさしく5日当日にアッズ環礁を出撃する予定であった。
史実ではサマヴィル提督は南雲艦隊を恐れて低速戦艦をアフリカ東岸に退避させるのであるが、自らに先行する高速部隊が日本艦隊からの空襲を受けて大打撃を受けている状況下で、低速部隊が味方を見捨てて退避するかは疑問である。
撃沈された艦の乗員救助には護衛の軽巡、駆逐艦を派遣すればいいかもしれないが、もし低速戦艦部隊率いるアルジャーノン・ウィリス提督が日本艦隊に接近しての砲撃戦を挑もうと考えたら、そのまま日本艦隊に向けて進撃を続けるだろう。
また、4月5日当日の南雲艦隊の位置とアッズ環礁との距離を考えると、索敵機の進出距離を300浬と定めている日本空母からR級戦艦部隊が逃れられるかも疑問である。
仮に南雲艦隊がR級戦艦部隊を発見したとしたら、コロンボ沖合で発見した2隻の重巡の処理は第三戦隊の金剛型戦艦4隻にでも任せて、5空母の第二次攻撃隊をR級戦艦部隊に向かわせるだろう。
R級戦艦はイギリスの造船官が、このような艦に乗って戦わせるのは乗員に死んでこいと言っているようなもの、と嘆いたというが、それだけ戦艦としての防御力に不安を抱えていた。
マレー沖海戦のプリンス・オブ・ウェールズなどよりも、よほど容易く撃沈出来るだろう。
こうして、日本側が積極的に英東洋艦隊の撃滅を企図していれば、4月5日の時点でその目的の大部分を達成することが可能だったろう。
もちろん、史実と同じようにセイロン島の基地航空隊という問題は残るものの、敵前での兵装転換も行う可能性が低い以上、大きな損害を受けるとは考えにくい。
まだトリンコマリーの空母ハーミスが残るものの、南雲艦隊の完勝はほぼ確実といえる。
私は基本的には日本側に甘く考えるようにしているが、それにしてもあまりに一方的過ぎて少し笑えてくるほどだ。
英東洋艦隊の撃滅を果たした南雲艦隊は、史実ではコロンボの次にトリンコマリーに向かったが、インド洋での連合軍海上交通路の遮断というもう一つの目的があるとしたら、ベンガル湾は小沢中将の馬来部隊に任せ、一航艦をさらに西進させる可能性がある。
流石に南雲中将の性格や燃料、弾薬の問題からアフリカ東岸の空襲は不可能だろうが、インド西岸ボンベイあたりまでは空襲を行うかもしれない。
この都市にあるキングジョージ五世門(現インド門)を破壊出来れば、それだけイギリスのインド統治が揺らいでいることを象徴する出来事になるだろう。
空母ハーミスについては、南雲艦隊が帰路に捕捉して撃沈するか、馬来部隊の龍驤が撃沈してしまうと思われる。
そうなればインド洋上にイギリスの有力な艦隊兵力は一切、存在しなくなり、枢軸国によるインド洋を通じた連絡航路の成立は容易になるだろう。
日本海軍の作戦方針が積極的であれば、英東洋艦隊の撃滅は決して困難なことではなかったのである。