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8 インド洋の旭日旗(3)

 そして第二に、大綱の内容が史実通りであったとしても、山本五十六という個人的要因でインド洋作戦は史実以上に大規模に行われた可能性はある。

 連合艦隊司令部では宇垣参謀長を中心に、ハワイ攻略作戦があまりにも困難であるために次善の策としてセイロン島攻略が研究されており、この研究成果は1942年1月27日に山本の承認を得たとされている。


 連合艦隊司令部からのインド洋作戦の要望は強く、軍令部もこれを受けて2月上旬、次期作戦要綱案の中に含めることとなった。陸軍側でも、艦隊をインド洋に派遣することそのものに対しては異論はなかった。


 山本五十六の対米戦略は、真珠湾攻撃の意図に現れているようにアメリカの戦意を喪失せしめることにあった。

 結局、真珠湾攻撃ではそれを果たせず、史実では連続決戦構想を実行しようとして初っ端のミッドウェーで盛大に躓いてしまったわけであるが、たとえば腹案にあるようにイギリスを戦争から脱落させる形でアメリカの戦意を喪失させるという方法もとれたのではないかと考えられる。

 山本五十六がインド洋での英東洋艦隊の撃滅とセイロン島攻略を考えていたことは事実であるが、どこまでイギリスの打倒を真剣に考えていたかは不明である。単に、太平洋方面で攻勢に出るために後顧の憂いをなくす、といった程度の考えであったのかもしれない。


 しかし、もし腹案通りにイギリスの打倒による連合国陣営の崩壊を契機とするアメリカの戦意喪失を山本が狙ったとすれば、彼は史実以上に強くインド洋作戦を主張したことだろう。

 ミッドウェー作戦でも明らかなように、彼は本来連合艦隊司令長官という立場でしかないにもかかわらず、軍令部の職掌である作戦計画の立案に強引に割り込むことをしてしまう人物であった。

 このあたりの山本の強引さをインド洋作戦に適用すれば、山本五十六主導でのインド洋作戦の積極化は想定として可能だろう。


 いずれにせよ、2月、3月段階で陸軍がインド進攻作戦、セイロン島攻略作戦に消極的であった以上、史実との変化を呼び起こす要因は海軍側にあったといえる。


 もちろん、日本のインド進出を疎ましく思っていたヒトラーという要因についても考察する必要があるだろうが、少なくとも1942年の2月、3月段階で日本の戦争指導計画の意思決定過程にヒトラー要因を持ち込む必要性はないだろう。

 ヒトラーは日本のインド進出を厭うていながら、日本への兵器・技術の供与には積極的であったのだから、なかなかにこの独裁者の内面を推し量るのは難しい(まあ、独裁者に限らず国家の枢要な地位にいる人間たちの思考は、時として理解し難いものがあるが)。


 さて、そんなこんなで史実以上に積極的なインド洋作戦という選択をした日本が、どう戦っていくのか。

 続いてはそれについて考察していきたい。


 まず、2月、3月段階でインド進攻作戦、セイロン島攻略作戦に陸軍が消極的である以上、必然的に海軍中心の作戦とならざるを得ない。

 その場合、作戦目的は英東洋艦隊の撃滅、インド洋における連合軍の海上交通路の遮断、といった形になるだろう。


 参加兵力については、改変される余地が生じないので日英海軍共に史実通りとなる。


  第一航空艦隊  司令長官:南雲忠一中将

第一航空戦隊【空母】〈赤城〉

第二航空戦隊【空母】〈蒼龍〉〈飛龍〉

第五航空戦隊【空母】〈翔鶴〉〈瑞鶴〉

第三戦隊【戦艦】〈金剛〉〈榛名〉〈比叡〉〈霧島〉

第八戦隊【重巡】〈利根〉〈筑摩〉

第十戦隊【軽巡】〈阿武隈〉【駆逐艦】9隻


赤城……零戦21機 九九艦爆21機 九七艦攻30機

蒼龍・飛龍……零戦21機 九九艦爆21機 九七艦攻21機

翔鶴・瑞鶴……零戦21機 九九艦爆30機 九七艦攻30機


  馬来部隊  司令長官:小沢治三郎中将

空母〈龍驤〉ほか、重巡5隻、軽巡2隻、駆逐艦14隻


龍驤……零戦12機 九九艦爆12機


  イギリス東洋艦隊  司令長官:ジェームズ・サマヴィル大将

【戦艦】〈ウォースパイト〉〈ロイヤル・ソブリン〉〈ラミリーズ〉〈リヴェンジ〉〈レゾリューション〉

【空母】〈フォーミダブル〉〈インドミタブル〉〈ハーミス〉

【重巡】〈コーンウォール〉〈ドーセットシャー〉

【軽巡】5隻(内1隻は豪軽巡ホバート)

【駆逐艦】11隻


フォーミダブル・インドミタブル……艦戦13機 艦攻25機

ハーミス……艦戦10機 艦攻7機


 この他、イギリス側にはセイロン島やインドの航空部隊が存在していたが、指揮系統上の問題から東洋艦隊と共同作戦をとることは出来なかった。

 セイロン島航空隊の戦闘機隊の進出可能距離は150浬、ブレニム爆撃機のみ400浬という状況であり、たとえ共同作戦がとれたとしても、東洋艦隊の上空支援を行うには距離的な困難が伴っていた。


 一方、戦力的には圧倒的に不利なイギリス側であるが、情報分野においては事前に日本側の行動を察知するなど、この点については日本側よりも優位に立っていた。

 日本側もセイロン島の事前偵察を潜水艦搭載の水偵で行おうとしたが、これは失敗している。


 ただ、イギリス側の情報面における優位も、五航戦の一航艦への合流が遅れたため日本側の作戦が暗号解読の日程通りには行われなかったため、実質的に無に帰している。

 サマヴィル提督は、日本艦隊の迎撃を意図しながらもアッズ環礁へと引き上げてしまったのである。

 史実五航戦の合流の遅れは米空母部隊の情報が入ったためであるが、インド洋作戦を第一とする戦争指導方針であったとしても本土周辺をまったくのがら空きにするのも拙いであろうから、やはりこの場合でも合流は遅れるだろう。


 また、史実では事前偵察の失敗によって英艦隊の動向が不明なままインド洋に突入した南雲艦隊であるが、最初から英東洋艦隊の撃滅、インド洋の連合軍海上交通路の遮断という作戦目的を掲げているのならば、自ずと違う結果も生まれる可能性がある。

 この時、艦隊とは別にアンダマン諸島ポートブレアおよびスマトラ島北端沖のサバン島に展開していた基地航空隊が、インド洋での索敵を行っていたのである(クーパンの基地航空隊はオーストラリア北部を偵察)。

 ポートブレアの航空隊は主にベンガル湾、サバン島の航空隊はそれより南側のおよそ600浬の距離の索敵を担当していた。ただし、ポートブレア航空隊の機数は不明だが、サバン島の航空隊は九六陸攻6機のみという兵力であったから、南雲艦隊と共同しての敵艦隊攻撃は不可能であったろう。

 あくまでも、基地航空隊は索敵に専念することになる。


 ただし、『戦史叢書 蘭印・ベンガル方面海軍進攻作戦』(朝雲新聞社、1969年)637頁の図を見てみると、600浬という進出距離ではアッズ環礁の英東洋艦隊を捕捉出来ない。

 依然として、南雲艦隊は英東洋艦隊の動向が不明なまま、進撃を続けることになる。

 英東洋艦隊の撃滅を主目的としている以上、セイロン島コロンボ、トリンコマリーに艦隊が停泊していないかは索敵で確認するだろうが、いなければ史実と違ってセイロン島の航空基地を攻撃することなく、陸攻隊の索敵範囲外の海域に索敵機を放つことになるだろう(まあ、コーンウォール、ドーセットシャーは史実通りに撃沈されるだろうが)。


 両艦隊、特に戦艦ウォースパイト、空母フォーミダブル、インドミタブルを主力とする高速部隊を南雲艦隊が捕捉する可能性が最も高いと考えられるのが、4月5日である。

 史実ではこの日、南雲艦隊によるコロンボ空襲が行われているが、この日の1530時、両艦隊は約100浬の至近にまで接近していた。

 ここに、史実と異なり珊瑚海ではなくインド洋にて史上初の空母決戦が行われる可能性が生まれるのである。

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