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大日本帝国のIFと架空戦記創作論  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞


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7 インド洋の旭日旗(2)

 史実においては、1942年3月9日、蘭印の無条件降伏に伴って連合艦隊はインド洋作戦の実施を命じている。

 機密聯合艦隊電令作第八六号「南方部隊指揮官ハ錫蘭(セイロン)島方面機動作戦ヲ実施スベシ」というのが、それである。


 その二日前の3月7日、「今後執ルヘキ戦争指導ノ大綱」が大本営政府連絡会議にて決定されていた(昭和天皇への上奏は13日)。

 この大綱の策定過程については立川京一「戦争指導方針の決定 ―太平洋戦争時の日本を事例として―」(『戦史研究年報』第13号、2010年)に詳しいが、ここではまず大綱の内容に関する問題点について述べたいと思う。

 拙作「暁のミッドウェー」第二話でも触れた通り、大綱では今後の戦争指導方針として「英ヲ屈服シ米ノ戦意ヲ喪失セシムル為引続キ既得ノ戦果ヲ拡充シテ長期不敗ノ態勢ヲ整ヘツツ機ヲ見テ積極的ノ方策ヲ構ス」と、陸軍の守勢作戦と海軍の攻勢作戦をそのまま盛り込んだだけの内容であった。つまり、陸海軍で戦争指導方針がまったく一致していないことに、大きな問題があったのである。

 東条英機首相からも、この矛盾について苦言が呈されているほどであった。

 結果、腹案ではイギリス第一主義であったにもかかわらず、海軍、特に山本五十六はアメリカ艦隊との決戦に固執し、史実ではやがてミッドウェーでの大敗北を迎えることになる。


 では一方で、海軍がまったくインド洋作戦に消極的であったのかというと、そうでもない。

 2月20日から22日まで戦艦大和艦上で行われた図上演習では、宇垣纏参謀長が米艦隊との決戦を主張する幕僚たちを、日本の大方針はインド洋にあると言ってたしなめる一面があった。

 この図演で想定されていたのは、ハワイ攻略作戦前にインド洋の英東洋艦隊を撃滅し、独伊との連絡線を確保することであった。

 少なくとも、1942年の2月、3月段階では、日本海軍も「アメリカとの決戦を前に」という条件付きながらインド洋での積極的な作戦を考えていたのである。


 しかしこの時期、逆に陸軍の方がインド進攻作戦には消極的となっていた。

 参謀本部の田中新一参謀本部第一(作戦)部長は、対ソ戦、重慶作戦、インド進攻作戦、セイロン島攻略作戦、西亜作戦の五つを考えていたが、この中で田中が最も重視していたのは対ソ戦、重慶作戦の二つであった。

 1942年4月には、重慶攻略作戦(五十一号作戦)を内示している。

 つまり、南方作戦が一段落した段階で陸軍が目指していたのは、蔣介石政権の屈服であった。

 そもそも、陸軍側ではインド進攻作戦、セイロン島攻略作戦は独伊のスエズ、中東進出に呼応して行うことを想定しており、この頃、北アフリカ戦線は1月31日に中止されたイギリスの反攻作戦「クルセイダー作戦」以来、膠着状態にあった。ロンメル将軍が攻勢に転じるのは、5月28日のことである。


 ここで、前項で示した日本が腹案に沿った形でイギリスの打倒を第一に掲げ続けていたらどうなったのか、という仮定に入っていきたいと思う。


 まず、前提として1942年3月7日の大綱決定までの戦況の流れは史実通りとする。

 以前に述べた真珠湾第二次攻撃問題とは、想定を異にしたい。

 その上で、日本がイギリスの打倒を第一とする戦争指導方針を貫くことは可能だったのだろうか?


 第一に、大綱が史実と異なるためには、作成の陸軍側主務者・甲谷悦雄参謀本部第十五課(第二十班:戦争指導班)長と海軍側主務者・小野田捨次郎軍令部第一部長直属(戦争指導班長)の意見が一致している必要がある。

 陸海軍の間では、特にオーストラリアの扱いについて意見が一致しなかった。

 参謀本部戦争指導班の業務日誌には、次のような記述が存在する。


1942年2月6日

終日将校集会所ニ於テ陸海主任者ニヨリ爾後ノ戦争指導ニ関スル研究議題ヲ討議シ陸海主任者一案ヲ得、明日連絡会議ニ於テ局長ヨリ説明スルコトトセリ

又海軍側ノ提案ニヨリ帝国国防圏ヲ如何ニ定ムベキヤニ付討議亦一案ヲ得タリ。蓋シ海軍案ハ豪州ニ進出ヲ企図セントシテ提議シ北方ヲ国防圏ニ入ルルヲ忘却ス。自己主義ノ一案ナリ


1942年2月12日

海軍ハ今ヤ豪州作戦ニ突入セントシテ陸軍ヲ引キヅラントシアリ。我ガ国力ヲ考ヘテ善処ヲ要スベシ。軍令部第三部情勢判断ハ殊更ニ第一部ニ於テ歪曲セントシテ過高断面案ノ提議シ来ル


出典:軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』上巻(錦正社、1998年)


 そもそも軍令部側では、開戦前からオーストラリアの存在を重視していた。

 特にオーストラリア北部は東南アジアの資源地帯とも距離が近く、連合軍の反攻の拠点になりかねないと懸念していたのである。そのために米豪間の遮断、豪州の英連邦からの脱落を目指すべく、オーストラリア北部の攻略までもを考えていた。

 そのために陸軍三個師団をオーストラリア北部に上陸させるよう、求めていた。

 しかし一方の陸軍は、豪州を攻略するとなれば地域を限定することは難しく、大量の兵力と船舶を必要とし、最悪泥沼化しかねず、国防の弾発力を失うとして反対であった。


 この他、軍令部が攻略を考えていたのが、セイロン島とハワイであった。

 しかし、ハワイ攻略に関しては軍令部としても非現実的と考えており、これを強く主張していたのは連合艦隊司令部、つまりは山本五十六であった。

 一方のセイロン島攻略については、軍令部・連合艦隊司令部間で意見が一致していた。


 オーストラリア攻略が陸軍の反対で実施不可能となると、軍令部としては次善の策としてセイロン島攻略を目指そうとするはずである。

 しかし、前述の通り陸軍側、特に参謀本部では2月、3月段階ではインド進攻作戦、セイロン島攻略作戦ともに消極的であった。ただし、独伊の北アフリカ戦線の戦況次第ということであったから、陸海軍間でこの点についての妥協は成立し得たとも考えられる。


 結局、史実の大綱のような両論併記、玉虫色の作文的内容になってしまった可能性はあるにせよ、陸海軍が一致して西進作戦を行う可能性は、1942年2月、3月段階では存在していたといえよう。

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