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大日本帝国のIFと架空戦記創作論  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞


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39 明治憲法体制(6)

 また、元老たちによる制度改革の可能性も、まったくないわけではなかった。

 特に伊藤博文は統帥権制度の改革を行おうとしていた。伊藤が帝室制度調査局総裁時代(1899~1900年、1903~1907年。1905年からは韓国統監と兼任)に取り組み、1907年に勅令で制定された「公式令」がそれに当たる。

 これは、勅令には内閣総理大臣の副署を必要とすることを定めたものであり、これによって軍部による帷幄上奏勅令の抑制を狙った。

 しかし、当時枢密院議長であった山縣有朋がこれに対抗して「軍令」を制定して(こちらは軍内部の規程)、公式令の空文化を図った。軍令によれば、帷幄上奏勅令には軍部大臣の副署があれば良いと定めており、これが統帥権の独立による軍部独走の基礎を作ったと様々な研究において指摘されている。

 勅令である公式令よりも軍内部の規程である軍令が優先されるというのもおかしな理論だが、少なくとも山縣有朋らは公式令を骨抜きにするために軍令を制定した。


 ただし、秦郁彦氏など一部の研究者は軍令によって政府の予算まで「統帥権の独立」を根拠に獲得することが可能となったと指摘しているが、近年の研究では流石に軍内部の規程だけで政府の予算まで「統帥権の独立」を根拠に獲得することは出来なかったと反証がなされるようになった。


 そして、伊藤への反発・敵視を隠そうともしない山縣ではあったが、彼も彼で統帥権制度の問題については自覚してはいた。ただ、彼の場合は純粋に統帥権制度の問題を憂えていたというよりは、政党勢力が陸軍に入り込んで統帥権制度を利用することを警戒していた。

 とはいえ、いずれにせよ彼もまた政党勢力に対抗する都合上、内閣の権限強化に乗り出さざるを得なくなっている。これが第二次山縣有朋内閣(1898~1900年)のことであったから、対応としては帝室制度調査局総裁を務めていた伊藤と同時期であったといえる。

 しかし、こうした山縣の動きに反発したのは、同じく元老で当時参謀総長を務めていた大山巌であった。

 結局、大山率いる参謀本部の反発、桂太郎陸相、山本権兵衛海相の態度も明瞭さを欠いていたことなどもあり、山縣の内閣権限強化の試みは中途半端に終わってしまう。


 この時期、陸軍内部で本気で統帥権の制限に取り組んでいたのは、児玉源太郎であった。

 こうした児玉の動きに注目した元老・伊藤博文は1905年、児玉内閣構想を進めようとした。しかし、児玉自身にどれだけ首相となる意思があったかは定かではなく、さらに児玉内閣構想を支えるために伊藤が政友会幹部の原敬に相談を持ちかけたところ、原はにべもなく断っている。

 原は桂内閣も児玉内閣も結局は藩閥内閣であるとして否定的だったのだ。さらにあえて児玉を擁立せずとも政友会内閣が実現出来そうな政治情勢であったことが(実際に1906年、政友会内閣である第一次西園寺内閣が成立している)、原をして児玉内閣構想を否定させる要因となった。


 さらに日露戦争後、大陸や半島への関与の仕方を巡って伊藤と児玉の政治構想には隔たりが出来るようになってしまった。

 大陸・半島への関与は限定的とすべきとする伊藤に対して、満洲で実際の戦場を体験した児玉は大陸利権の確保・拡張にこだわった。

 児玉の大陸経営論は文官の遼東総督(児玉は後藤新平を想定していたようである)を設置してその下に軍を置くという構想であったが、大陸経営にそもそも反対の伊藤はこの案を葬ってしまった。結果、皮肉なことに関東都督府(後に関東長官)による軍の統制は出来ず、後に関東軍の暴走を招くことになる。


 そして、陸軍改革の中心的人物であった児玉源太郎は1906年7月22日、脳溢血によって急死してしまう。

 伊藤もまた公式令を制定した2年後の1909年、哈爾浜にて安重根によって暗殺されてしまう。

 統帥権制度改革を推進しようとしていた二人の死は、元老自身による明治憲法体制の改革という可能性の消滅でもあった。


 その後に現れる原敬、加藤友三郎、浜口雄幸といった新たな統治形態を模索し得る可能性を秘めた者たちも次々と天寿を全う出来ずに歴史の舞台から消え去っていく。

 それは大日本帝国にとって、取り返しのつかないほどの損失であったといえよう。

 結果、日本は明治憲法体制が抱えた制度的欠陥を解消出来ぬまま、1945年の8月を迎えることになったのである。

 歴史には「この人がもう少し長生きしていてくれれば」と思う人物が多くおります。

 日本史における筆頭は恐らく織田信長かと思いますが、近現代史に限って見てみると、あまりにも惜しい人物が多数、天寿を全う出来ていないことに愕然とします。

 今回は明治憲法体制の分権的性格に焦点を絞ってみましたが、大村益次郎など明治維新期に暗殺された人物なども含めると、そうした人物の数はもっと膨れ上がるでしょう。

 大日本帝国を存続させる、あるいは勝利させる歴史改変小説を描くとしたら、彼ら明治憲法体制に変革をもたらすことが出来たであろう人物たちを如何に生存させていくかが鍵になるのではないかと、改めて思った次第です。

 特に元老という立場で明治憲法体制を改革出来たはずの伊藤博文の死は、判官贔屓もあるとはいえ、あまりにも大きな損失であったと言わざるを得ません。

 その意味では彼を暗殺した安重根はまったく評価出来ませんし、長い目で見れば明治憲法体制の欠陥を改善する機会を日本から奪って敗戦に導いた一方、それによる朝鮮半島の分断をもたらしたとも見ることが出来ます。もちろん、朝鮮半島分断の責任を安重根の行為だけに求めるわけにはいきませんが、歴史という大きな流れの中で個人の行為の影響を考えた時、彼の行動には負の影響しかなかったように見えるのです。

 もっとも、暗殺者やテロリストを「烈士」、「義士」として称揚するのは日本も同じで、桜田門外の変を起こした浪士たちは「桜田烈士」、水戸天狗党の者たちは「水戸烈士」などと言われることもあります。

 赤穂浪士なども広い意味ではテロリストでしょうから、結局のところテロ行為か義挙かの判断は、多分に国民性や国民感情に左右されるものなのでしょう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 分権状態の明治政府を何とか出来たのは原さんが最期でしょうね。 濱口さんは信念もあり能力もありましたが、大恐慌時の経済政策があまりにも酷すぎて、暗殺当時にはインテリを除いた国民から支持されて…
[気になる点] 統帥権干犯問題といえばワシントン海軍軍縮会議で海軍がゴネた頃に作られたという印象でしたが、それより以前から火種はあったのですね。 元々あった火種を海軍がこれ幸いと引っ張り出してみたら、…
[良い点] 仮想戦記においては「統帥権干犯問題」をどうにかするのがお決まりのパターンですが、そもそも「統帥権」というものがどうして成立したのか? という点について、明治維新の時点までさかのぼって分析す…
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