38 明治憲法体制(5)
もちろん、明治憲法体制の制度的欠陥について当時の為政者たちがまったく無自覚だったわけではない。
先に見た原敬などはその一人であり、、軍部の帷幄上奏権の廃止しようとはしていた。だが、山縣有朋の存命中は難しいと考えていたようで、参謀本部廃止論を唱えた高橋是清を諫めるなど、元老・山縣と過度に対立しないように慎重な言動に終始していた。
そして皮肉なことに、山縣死後を見据えていたと思われる原は、その山縣よりも先に暗殺という形で歴史から消え去ることとなる。
もちろん、原は原で地方利益誘導をやり過ぎるなどその政治手法を全面的に肯定することは難しいが、こと軍部を抑えるという意味では原の死は大きな損失であった。
一方、原が内閣総理大臣を務めていた当時は、軍部大臣文官制も唱えられるようになっていた。
時の海相・加藤友三郎も軍部大臣文官制に理解を示しており、軍令部側の反発も大きかったろうが、加藤がリーダーシップを発揮することが出来れば軍部大臣文官制導入に向けた議論が活発化する可能性はあったろう。
しかし、指導者として優秀であった原の死、そしてその直後には明治憲法体制の多元性を元老という立場で辛うじて繋ぎ止めていた山縣も死去し、政局を極めて不安定なものとなってしまう。
そして加藤もまた1923年8月24日に大腸癌のため死去し、間の悪いことにその直後に関東大震災が発生、震災からの復興問題なども絡んで政局はいよいよ混迷の度合いを増していくこととなった(近年の研究では、第二次山本権兵衛内閣総辞職の原因を虎ノ門事件ではなく帝都復興計画を巡る対立に求める見方も提示されている。つまり、山本が内閣を投げ出すタイミングを見計らっていたところに、都合よく総辞職する理由が出現したということである。)。
政友会と藩閥・官僚勢力が交互に政権を担当するという「情意投合」路線が、加藤友三郎内閣、第二次山本権兵衛内閣、清浦奎吾内閣と、三代にわたって破られたことも政治的対立を深める結果に繋がった。
こうした政治情勢では、軍部大臣文官制の議論が進むはずもない。
政府や統帥部といった多元性を一つにまとめ得る可能性を持っていたのは、当然ながら天皇である。
しかし、大正天皇は病の影響などもあって明治天皇のように調停者としての力を発揮出来ず、新たな元老の選出も困難であった。
山本権兵衛準元老擁立運動なども知られているが、結局は西園寺公望によって阻止されている。
準元老擁立運動に関わっていたのが宮内大臣の牧野伸顕であったことも、色々と問題があった。そもそも宮内大臣の職責を越えた行為をしているとして西園寺の不興を買っていたし、何より牧野は維新の三傑の一人・大久保利通の息子であった。
牧野が新たな元老の擁立、そして後継首班の推薦に関わろうとすれば、元老という曖昧な制度の中に世襲的な要素が紛れ込む危険性もあったといえよう。
牧野はその後、昭和戦前期には宮中グループの中枢を占めることになるが、当然ながら彼が西園寺の後を継ぐべき新たな元老として扱われることはなかった。
その意味では、高齢の山縣有朋の死はある程度はやむを得ないにしても、原敬と加藤友三郎の早すぎる死は近代日本にとってあまりにも痛手であったといえよう。
彼らに代わって明治憲法体制の分権制を、そのリーダーシップによって統合出来る可能性があった人物は浜口雄幸であろうが、彼もまた原と同じように暗殺(未遂)の憂き目に遭う。
そして最後の政党内閣ともいえる犬養毅内閣は、犬養自身が統帥権干犯問題を政府攻撃の手段として利用してしまった以上、たとえ史実と違って暗殺を免れたとしても分権制を改善するための何らかの成果を残すことは難しかっただろう。
斎藤実内閣、岡田啓介内閣が再び憲政の常道に戻るための中間的な内閣であると当時は理解されていたが、結局、それは果たされることはなかった。
むしろ、これら二つの内閣は満洲事変に端を発する軍の統制問題、国体明徴運動など明治憲法体制の欠陥を原因とする問題に翻弄され続けたといえる。
極論してしまえば、伊藤や山縣など元老たちの多くが健在の内に将来に備えて、制度の改革を行っておくべきであった。
山縣も晩年は自身の死後の元老体制の行方を憂えていたようであるが、すでに遅きに失していたといえよう。
いや、そもそも内閣制度を創設する段階で「幕府的存在」の再来を恐れずに「大宰相主義」による統制力の強い内閣制度を選択しておけば良かった。
少なくとも伊藤博文は大宰相主義者であり、この伊藤の構想が貫徹されていれば明治憲法体制はまた違ったものとなっただろう。




