35 明治憲法体制(2)
そして、繰り返しになってしまうが、大日本帝国憲法に内閣に関する条文は存在しない(現行憲法では第5章、第65~75条が内閣の条文)。
明治憲法体制下において、内閣制度は1889年12月24日の勅令「内閣官制」において定められている。
内閣官制の主要な条文は、次の通りである。
第1条 内閣ハ国務各大臣ヲ以テ組織ス
第2条 内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス
第7条 事ノ軍機軍令ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルヽノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ
憲法の条文中に内閣制度を組み込まなかったのは、そもそも内閣制度自体が憲法制定以前の1885年に太政官達「内閣職権」で内閣制度が成立してしまっていたこと、内閣制度を憲法で明文化すれば再び幕府的存在を生み出しかねないとする岩倉具視らの懸念があったことなど、いくつかの理由が指摘されている(岩倉自身は内閣制度成立前に死去しているが、その後も強力な内閣制度に対する反対意見は存在し続けた)。
そして、問題となる「統帥権の独立」の根拠は、先に挙げた内閣官制第7条および憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」に求められる。
1930年のロンドン海軍軍縮会議における統帥権干犯問題では、憲法第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」も統帥権(天皇の統帥大権)に含まれるのかどうかで論争が起きているが、基本的には第12条は国務大臣の輔弼事項として解釈されてきた(特に美濃部達吉はこの学説を唱えていた)。
ただし、当時の浜口雄幸内閣は第12条について、統帥部との共同輔弼を必要とする場合もあり得るとの答弁を行っている。要するに、ロンドン条約で定められた兵力量が「常備兵額」(憲法第12条)なのか「所要兵力」(第11条)なのかで解釈違いを引き起こす要因を孕んでいたということである。
さて、廃藩置県の断行など近代的な中央集権国家を目指していたはずの明治政府が何故、こうも多元的、分権的な憲法体制を確立させてしまったのだろうか。
要因はいくつか考えられるが、まず明治維新の精神が「王政復古」、つまりは「天皇中心の国家づくり」にあったことが挙げられよう。
天皇中心という意味では、確かに明治憲法は中央集権的である。しかし、憲法の条文を見ても明らかなように、実際に天皇が親政を行うわけではないのだから、実態としては天皇の下にある各種統治機構がそれぞれ天皇に直属する形となってしまう。つまり、「天皇中心」という建前(国体)を重視したために、実態(政体)としては分権になってしまったといえる。
また、明治維新段階ではいくつかの政治勢力が分立していたことも要因として挙げられるかもしれない。
「薩長土肥」の藩閥勢力が明治維新を成したということになっているが、この時点ですでに四つの政治勢力が存在するのだ。明治維新後は陸軍に山縣有朋、内務省に伊藤博文、大蔵省に松方正義、司法省に山田顕義など、後に維新の元勲と呼ばれる者たちがそれぞれに活躍の場を得ていた。
これら勢力を新国家建設のために早急に動員する必要があったために、天皇の名の下に形式的な統一性を持たせる必要があった、という要因もあろう。
明治維新を成し遂げた者たちには、互いに対する好悪の念はともかくとして、横の繋がりはあったのだから分権的でも問題なかったという見方も出来る。
少なくとも、彼らは日本を西洋に伍する近代国家にするという目標では一致していた。
そのために必要なのが憲法であることも理解していた。
だがそもそも、維新の精神である「王政復古」と目指すべき西洋式の「立憲君主制」は、相容れない存在である。
結局のところ、明治憲法体制は建前(国体)としての「天皇中心制」と実態(政体)としての「立憲君主制」を両立させようとした苦心の産物であるとも評価することが出来る。
日本の歴史上、天皇と時の権力者との関係は暗黙の了解の内に成立していた。
日本という国家の歴史的連続性を万世一系の天皇が保証し、実際の統治は摂政・関白や幕府といったその時代ごとの権力者が行うという統治形態がそれである。
しかし、こうした歴史という伝統を元にした権威と権力の関係性、国体と政体との関係性を、西洋列強に日本が近代国家であると認めさせるために憲法に組み込もうとしたところにそもそもの問題点があるといえ、一度成文化してしまった以上、そこに法解釈を巡る対立が生じてしまうのもまた必然であったといえよう。




