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33 昭和戦前期日本の貿易(2)

 前項では日本の総輸出入額や品目ごとの貿易額を見てきた。

 そこから見えるのは今も昔も変わらない日本の資源輸入国としての宿命ともいえる貿易構造であった。


 続いて、どういった資源をどのような国・地域から輸入していたのかという点について注目していきたい。


 まず、日本の主要輸出品である綿製品の原料である綿花について見ていこう。

 1934(昭和9)年の輸入実績は、次のようになっている。


  輸入総額:7億3142万5000円(1355万5000擔)※「擔(担)」は約60キログラム

アメリカ:4億91万9000円(647万7000擔)

インド:2億5243万5000円(579万2000擔)

エジプト:3978万7000円(55万擔)

中国:1549万3000円(33万1000擔)


出典:三菱経済研究所『日本の産業と貿易の発展』(日本評論社、1935年)


 金額的にも数量的にも、圧倒的に英米に頼る割合が大きい。大東亜共栄圏に関する項で日満支経済ブロックについて言及したが、綿花の供給源として中国だけでは賄い切れないことは明らかである。

 太平洋戦争中、フィリピンの既存の農業を破壊してでも綿花の栽培を強要したことには、こうした点にも原因が求められよう。もちろん、大東亜共栄圏に関する項で述べたように、結局、大東亜共栄圏内で綿花を自給することは失敗に終わったのだが。


 もちろん、過度な対英米依存状態を戦前期の日本はまったく問題視していなかったわけではない。例えば南進論が政策的に具体化していく1930年代、南洋興発株式会社はポルトガル領ティモール島に大和商会という子会社を設立して綿花の栽培権を獲得していたりする。同時に、南洋興発は同島のマンガン採掘権、石油採掘権の獲得も狙っていた。

 しかし、やはり事業が軌道に乗るだけの時間はなかった。


 同じく繊維産業である羊毛についても、年間平均2億ポンドの国内消費量に対して国内生産量は20万ポンド前後であり、昭和初期には98パーセント近くをオーストラリアからの輸入に頼っていた。

 その後、アルゼンチン、南アフリカ、ニュージーランドからの輸入量を増やしたが、それでも1934年段階での豪州への依存度は85.4パーセントと、依然として高い水準に留まっている。


 製鉄業に関する銑鉄、屑鉄の海外依存度については国力の項で言及した通りであるが、改めて記載すると1936年時点において銑鉄の国内生産量は221万トン、輸入量は98万トン(内満洲より28万トン)であり合計は319万トン、海外依存率は約30.7パーセント、輸入先はインド27万トン、イギリス2万トン、アメリカ6000トンとなる。銑鉄については、イギリス勢力圏に対する依存度が高いことについても、以前、言及した通りである。

 一方、屑鉄については1934年の数値になってしまうが、アメリカから約80万トンを輸入している。この年の屑鉄輸入量は約117万トンであるから、アメリカへの依存度は顕著である。


 現在でも九割前後を海外へ依存する小麦については、やはり昭和戦前期においても海外へ依存する割合は高い。1934年においては約40万トンを輸入し、その内約22万トンをオーストラリアに、11万トンをアメリカに、6万トンをカナダからの輸入に頼っていた。


 日本の農用地は、1935年時点で5万9430平方キロメートル(台湾、朝鮮も含めた当時の国土面積は約67万5405平方キロメートル)であった。

 他国と比較してみると、アメリカ143万9910平方キロメートル、イギリス19万5330平方キロメートル、フランス32万8050平方キロメートル、ドイツ28万6280平方キロメートルとなる。

 資源を確保し技術力を高めればある程度は差を埋められる工業に比べて、土地そのものを必要とする農業分野で欧米に追いつくのはなかなかに難しい。

 日本が今も昔も食糧自給率が低い理由が、こうして比較するとよく判る。


 しかし、ここでもう一つ注意しておかなければならないのは、戦前期の日本は現代の日本と違って資源だけでなく機械製品の多くも輸入していたということである。

 相澤淳『海軍の選択』(中央公論新社、2002年)では、ドイツの優れた技術力を目的にかの国への接近を強めていく日本海軍の姿を解明した。軍事的に見ても、日本は海外の技術に頼らざるを得ないような水準の技術力だったのである。


 例えば自動車については、完成品および部品の九割以上をアメリカに依存する形であり、昭和戦前期の自動車産業は非常に立ち後れていた。

 それがもたらした大戦中の自動車生産量の日米の差については、国力の項で見た通りである。


 また、収蔵する筆者自身の個人情報などの問題からインターネット上で史料名を明らかにすることは出来ないが、筆者の手元には日中戦争期に作成された機械製品の緊急輸入の必要性を強調する史料が存在している。

 それによれば、旋盤、研磨盤、フライス盤、プレス機など様々な工作機械を輸入に頼っていた実態が浮き彫りになっている。

 「技術大国日本」というイメージは、少なくとも戦前期日本には当てはまらない。


 資源と、それを加工するための機械・技術までもを海外に求めざるを得なかったのが、昭和戦前期の日本だったのである。

 昭和戦前期日本の国力と貿易を調査して、これで大まかな各種統計については見ていくことは出来たかと思います。

 しかし一方で、今回の調査で決定的に不足している部分があり、それが食糧自給率です。現代日本でも「食料安全保障」が叫ばれて主要な政策課題の一つとなっています。


 戦前期の日本の食糧政策・農業政策については、大豆生田稔氏の『近代日本の食糧政策 対外依存米穀供給構造の変容』(ミネルヴァ書房、1993年)が、まとまった研究でしょう。大豆生田先生はその後も戦前期日本の食糧政策についての専門書・一般書を世に送り出し続け、つい最近である2023年2月には『戦前日本の小麦輸入 1920~30年代の環太平洋貿易』(吉川弘文館、2023年)が出版されました。

 30年という時間が空いてしまいましたが、米・小麦という主食となる穀類に関する戦前期日本の食糧政策の研究がこれで揃ったと言えます。

 本稿で言及した塩についても前田廉孝氏が『塩と帝国 近代日本の市場・専売・植民地』(名古屋大学出版会、2022年)という本を著しています。ただし、この本の主要な研究テーマは食塩であり、本稿で言及した工業塩についての言及は少ないです。

 私が見つけられていないだけで恐らく工業塩についての研究もあると思いますが、そこまでは調査が及びませんでした。


 戦前期の食糧政策についての調査もまだまだ及んでおりませんので、それについては今後の課題としたいです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 先日、大和ミュージアムの隣で公開された「大和の主砲を作った旋盤」もドイツ製ですからね。 調べれば調べるほど「よくこんな状態で戦争やろうと思ったな」と思いますね。
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