32 昭和戦前期日本の貿易(1)
無資源国日本の国力を支えるに当たって、現代においても海外からの資源輸入は欠かせない。
昭和戦前期における日本の貿易の実態についてどうであったのか、ここではそれを見ていくこととしたい。
まず、1926(昭和元)年から1936(昭和11)年までの日本の貿易額を見てみる。なお、下記の数字は朝鮮、台湾といった植民地と内地との間の移入・移出額も含んでいる。
(輸出額:輸入額)
1926年 24億1436万9000円:29億1770万7000円
1927年 23億8289万9000円:27億1202万4000円
1928年 24億11万3000円:27億4466万6000円
1929年 26億431万5000円:27億6483万4000円
1930年 18億7117万3000円:20億549万8000円
1931年 14億7951万4000円:16億8612万4000円
1932年 18億211万9000円:19億3628万8000円
1933年 23億5077万5000円:24億6381万1000円
1934年 27億8853万9000円:29億6970万6000円
1935年 32億7602万8000円:32億7233万円
1936年 35億8500万円:36億4100万円
出典:日本銀行統計局『明治以降 本邦主要経済統計』(日本銀行統計局、1966年)
輸出額と輸入額を比較すれば一目瞭然であるが、昭和戦前期の日本はほとんど常に貿易赤字を抱えていたことになる。
1929年の世界恐慌の影響は貿易額の上からも顕著で、これが1932年から何とか持ち直し始めた理由には犬養毅内閣下で高橋是清蔵相が行った金本位制からの離脱と通貨管理政策、低為替政策による輸出拡大政策があったからである。
その意味では、短期間でこれだけの成果を挙げられた高橋蔵相の手腕には瞠目するしかない。
しかし、高橋財政による輸出拡大政策は、一方で外交的な問題も引き起こしていた。
要するに、貿易摩擦を引き起こしたのである。
当時の日本製品(主に綿製品を中心とした繊維製品)は低賃金などの影響もあって安価であり、国際的な価格競争に勝って急速に市場を拡大するに至っていた。
その最初の市場がインドであり、ここでイギリス製の綿製品と激しく競合した。
結果、イギリス・インド政府は日本製品に対する75パーセントもの差別的高関税をかけてインド市場からの締め出しにかかり、次いで日本が市場を拡大していた蘭印からも締め出しを喰らうことになった。
この過程で行われた外交交渉が、いわゆる日印会商(1933年9月~1934年3月。シムラ会商とも)と日蘭会商(1934年6月~12月、1937年4月)である。
この他、オーストラリアからも羊毛を日本が輸入する代わりとしての輸入割当制を課されるなど、世界的な日本製品の締め出し政策が実施されてしまったのである。
高橋是清は蔵相としては確かに辣腕を発揮し、二・二六事件で青年将校に殺害されてしまったことによる判官贔屓などもあって架空戦記小説界隈では非常に高い評価が与えられているし、私も高橋是清の手腕を否定しているわけではないが、外交も含めた日本の総合的な政策の中で彼の功罪は判断されるべきであろう。
さて、全体的な貿易額は前記の通りであるが、では具体的にどのようなものを日本は輸出・輸入していたのだろうか。
年ごとに列記しようとすると非常に煩雑なので、ここでは日中戦争前年の1936年に絞って見ていきたいと思う。
なお、1926年から1936年までの間で、世界恐慌の影響はあるにせよ、貿易額全体で見た貿易品目ごとの輸出・輸入額の割合に顕著な変化は見られない。
また、統計のない品目については統計の存在する近くの年の数値を用いた。
主要輸出品目(輸出総額:35億8500万円)
茶 1300万円
生糸 3億9300万円
綿糸 3800万円
綿織物 4億8400万円
セメント 800万円
陶磁器 4300万円
鉄鋼 (1935年)6486万4000円
繊維機械 1500万円
船舶 800万円
魚油・鯨油 1000万円
玩具 3600万円
主要輸入品目(輸入総額:36億4100万円)
小麦 3400万円(約310万トン)
米 500万円(約55万トン)
砂糖 2100万円(約216万トン)
大豆 6100万円(約554万トン)
羊毛 2億100万円(約9万8000トン)
綿花 8億5000万円(約91万トン)
原皮 2400万円(約3万トン)
木材 5600万円
生ゴム 7300万円(約6万3000トン)
鉄鋼 (1935年)3454万7000円(約340万4000トン)
燐鉱 2200万円(約83万トン)
石炭 5100万円(約420万トン)
原油 (1935年)1億5267万7000円(約428万9000キロリットル)
塩 1800万円(132万2000トン)
出典:日本銀行統計局『明治以降 本邦主要経済統計』(日本銀行統計局、1966年)
こうして品目別に見てみると、改めて日本が無資源国であることを痛感してしまう。
日本の主力輸出品である綿織物ですら、海外からの綿花の輸入に頼らなければならないというのが、昭和戦前期日本の貿易構造だったのである。
純粋に日本国内で賄えている品目といえば、生糸程度しかない。
しかもこの生糸であるが、1935年に米デュポン社がナイロン6.6を発明したため、アメリカとの貿易関係における日本の依存度は完全に一方的なものとなってしまう。
ただし、生糸の輸出額は37年4億700万円、38年3億6400万円、39年5億700万円、40年4億4600万円と、1940年1月26日に日米通商航海条約が失効するまではそれなりに安定した輸出額を維持している。
もちろん、だからといって一方的な貿易依存状態が解消されているというわけではないが。
主要参考文献・論文
清水貞俊「日本の近代化過程における貿易構造の変化」(『立命館経済学』第16巻第5・6合併号、1968年)
杉山伸也、イアン・ブラウン編著『戦間期東南アジアの経済摩擦』(同文館、1990年)
杉山伸也『日本経済史 近世―現代』(岩波書店、2012年)
杉山伸也『日英経済関係史研究 1860~1940』(慶應義塾大学出版会、2017年)
平尾健介ほか編『ハンドブック日本経済史』(ミネルヴァ書房、2021年)




