30 昭和戦前期日本の国力(5)
そして、意外なことにあまり言及されないのが塩である。
日米の国力を数値を次々と挙げて比較し、日本が対米戦に挑んだことがいかに無謀であったかをこれでもかと書き尽くした森本忠夫『貧国強兵』でも、塩についてはほとんど言及されていない。
塩は先に述べた石油にも関わっており、石油洗浄に使われる。要するに、原油を積み出した後の油槽船に残る油性残留物を除去するために使われるということである。
それ以外にも、冶金、硝子製造、石鹸製造、苛性ソーダの製造、皮の加工など、およそ化学工業のあらゆる分野で塩は必要である。
中でも苛性ソーダはアルミニウム生産に必要であるから(正確にはボーキサイトからアルミナを取り出すために必要)、工業塩の確保は航空機生産にも繋がってくる重要な要素となる。
また、苛性ソーダを多量に消費する業種として製紙業が挙げられる。
日中戦争の勃発以降、戦時体制の進行によって行政機能が肥大化し、それに伴って作成される行政文書の量も増大していったことは、加藤聖文「喪われた記録 ―戦時下の公文書廃棄―」(『国文学研究資料館紀要アーカイブズ研究篇』第1巻、2005年)などにおいても指摘されている。
ペーパーレス化が叫ばれる現代社会と違い、電子媒体などない1930年代当時、戦時体制の確立はそれだけ紙の消費量を増大させたのである。
特に行政側が重視していたのは、戦時動員のために必要な名簿類であった。
工業的な視点だけでなく、行政的な視点からも、塩の確保は重要な要素であったといえよう。
紙は戦局の悪化によってますます不足するようになり、再生紙として利用するために公文書が次々と廃棄されていった実態が、加藤氏の論文では描かれている。
それほどまでに、戦時体制の確立と紙というのは切り離せない問題であったと言えるのだ。
さて、このように行政面での戦時体制の確立にも欠かせない要素といえる塩であるが、日本は塩の自給率が現代に至るまで低く、その大半を輸入に頼っている。
塩は工業にとって必要不可欠であるばかりでなく、人間や動物にとっても必要不可欠な栄養素である。
大井篤『海上護衛戦』には、大戦末期に大蔵省専売局の人物が発した悲痛な言葉が記されている。
「塩の状況はこの分でゆけば今年の秋頃には家畜にやる塩の配給は全く停止となり、家畜の斃死がはじまるだろう。来年になったら一般家庭に対する配給もできるかどうか心配である。そうすれば国民の上にも、家畜と同じような運命が訪れないとは保証し得ない」
大井篤『海上護衛戦』(学習研究社、2001年)417頁
塩についてもアメリカの生産量は世界一で、1930年の生産量は730万トンを記録している。
これに対して、同年の日本の生産量は植民地である朝鮮、台湾での生産量を足しても約95万トンに過ぎなかった(内地62万9000トン、朝鮮17万8000トン、台湾14万9000トン)。
他に、関東州では24万9000トンの塩の生産があった。
一方で日中戦争以前の1930年代日本における塩の需要量は年間190万トン前後であり、しかも国産の塩はほとんど食用にしか適さず、工業塩はもっぱら外国産に頼っていた。
その主な輸入先は中国、ソマリア、エリトリアで、エジプト、スーダンなども含めると輸入量の3分の1以上はアフリカ産の塩であった。
昭和9年度の日本の主な塩の輸入・移入量は次の通りである。
台湾:8万4700トン
関東州:15万4100トン
満洲国:11万1200トン
青島:18万6300トン
シャム:4800トン
ジャワ:4万6900トン
伊領ソマリランド:20万8100トン
仏領ソマリランド:1万4300トン
エリトリア:17万4500トン
エジプト:13万400トン
英領スーダン:1万5100トン
スペイン:5万4500トン
アメリカ:2万トン
出典:矢野恒太・白崎亨一共編『昭和十年版 日本国勢図会』(1935年、国勢社)
アメリカへの依存度は2万トンとアフリカ産に比べると少ないが、これは世界一の生産量を誇りながらもアメリカも塩を輸出するだけの余裕がなかったことによる。
ちなみに、世界における塩の生産は基本的には岩塩由来である。当時、岩塩が多く採れたのは北米およびヨーロッパ地域であった。




