29 昭和戦前期日本の国力(4)
そして、ここまで石油を“採る”話ばかりしてきたが、鉄鉱石から鉄を作るのと同じく原油は精製しないと基本的には利用出来ない。
その石油精製技術もまた、日本はアメリカに劣っていた。特に航空燃料の分野では決定的に敗北していたと言っても過言ではないだろう。
日本の石油精製量は、1938年が159万4000キロリットルで、実はこの年がピークであった。41年には一日の精製能力は9万バレル(約1万4000キロリットル)に達していたとされるが、輸入が滞っては宝の持ち腐れである。
さらに航空燃料の問題について言及すると、日本は結局、終戦まで100オクタンガソリンを製造する技術を確立することが出来なかった。
航空揮発油、つまりガソリンはオクタン価が高ければ高いほどアンチノック性(異常燃焼のしにくさ)に優れているとされ、その数値に比例して発動機の出力、燃費は向上する。
例えば、九六陸攻、九九艦爆などに搭載された金星発動機は、オクタン価92では1092馬力、オクタン価100だと1233馬力となった。
日本は小出力の発動機しか開発出来なかったから、なおさらオクタン価を高める技術の確立は重要であった。
不具合が多発したことで有名な誉発動機であるが、そもそもこの発動機はオクタン価100の燃料を使うことを前提に設計されたものであった。
しかし結局、日本は100オクタン燃料を製造する技術を確立出来なかった。
一方、フィリピン戦で鹵獲された陸軍四式戦闘機「疾風」が、アメリカ軍による試験で時速687キロを記録したというのは良く知られている話であろうが、少なくとも発動機を設計する技術自体はそれなりに確立出来ていたといえよう(日本側は91オクタン燃料と水メタノール噴射でようやく時速630キロを実現していた)。
つまるところ、それを動かすための石油精製技術の決定的な遅れが、日米間で総合的な航空機の性能差を生み出してしまったと言えるのかもしれない。
日本が航空揮発油の量産体制を確立しようとし始めたのは1931年で、翌32年の第一次上海事変を契機として海軍では臨時特別軍事費と投入して航空揮発油の生産に必要な分解蒸留装置2基の建設を決定している。
この時、海軍が目指したのは80ないし83オクタンで、当時アメリカではすでに87オクタン燃料の生産が始まっていた。
さらに航空燃料の優劣を決めるのは原油の質であり、日本の勢力圏内で産出する原油の中で航空燃料に適するものはごくわずかであった。
日本が航空燃料の製造に最も適していると判断していたのは、カリフォルニアの原油であった。
これを受け、1936年より海軍では航空揮発油製造用に100万トンの備蓄目標を立てて緊急輸入を実施している。
日本で87オクタン燃料の製造が可能となったのは、1936年からであった。
そしてお気付きの方もいるだろうが、先に挙げた九六陸攻の正式採用がこの年(皇紀2596年)である。この時点で九六陸攻の搭載する金星発動機に使用する燃料は92オクタンを想定しており、太平洋戦争開戦以前の段階から発動機に最適な燃料と実際に製造出来る燃料のオクタン価の差が生じていた。
一応、『日本海軍燃料史』によると、1938年に徳山海軍燃料廠での実験において100オクタン航空揮発油の製造には成功しているらしい。
ただし、やはり量産体制が整えられたのは92オクタンの方であり、日本では以後も100オクタン燃料の量産体制確立に向けた試行錯誤が続いていく。
1939年5月13日、100オクタン燃料の精製を目的とした国策会社「東亜燃料工業株式会社」が設立される。これは、日本石油、小倉石油、三菱石油、朝鮮石油、早山石油、愛国石油、丸善石油、新津石油の合同出資からなる会社であった。
燃料政策の主導権を握りたい陸軍と海軍の東亜燃料を巡る政治的駆け引きはこの際置いておくとして、結局、日本は100オクタン燃料製造法を独自に開発することは出来なかった。
この時、日本では100オクタン燃料を製造する方法として、ドイツのベルギウス法、アメリカのUOP社の接触分解法、同じくアメリカのサン・オイル社のフードリー法の三つに注目していた。
そこで1939年9月、アメリカで発明されたフードリー法のライセンス権を得るための交渉が行われたのであるが、この交渉は日中戦争に伴うアメリカの道徳的禁輸措置によって頓挫してしまう。
もちろん、フードリー法のライセンス権が得られなかったからといって、日本側、東亜燃料側が100オクタン燃料の製造を諦めたわけではない。少なくとも禁輸前に得られた情報を元に、独自の接触分解装置を東亜燃料は和歌山に建設している。
そして100オクタン燃料を得るために必要なイソオクタンを製造するために、ブタノール発酵法によるイソオクタン製造計画が立てられた。このブタノール発酵法を行うために、全国の農家で工業用サツマイモの作付けが行われ、少なくとも計画上は100オクタン燃料を製造する目途が立ったことになった。
そして、将来的に100オクタン燃料製造技術が確立されるという前提の下で、誉などの新型発動機の開発が行われたのである。
しかし結局、100オクタン燃料の製造技術は終戦まで確立されることはなかった。
大戦中の日本が唯一、得ることが出来た100オクタン燃料は、蘭印パレンバンのB・P・M・ブラジウ製油所で製造される分だけであった。
当然、陸海軍の全航空隊に行き渡る量ではない。
そしてこの貴重な100オクタン燃料も、1944年以降は油槽船の不足などから内地ヘの還送が不可能となり、日本は最大で95オクタン燃料の製造を行えただけで終戦を迎えたのである。




