28 昭和戦前期日本の国力(3)
前項では主にGNP、GDP、そして製鉄業の観点から日本の国力を見てきたが、もちろん、他にも着目すべき点、他の列強諸国と比較すべき点は多岐にわたる。
しかし、その一つ一つを見ていくと内容が煩雑化し、また森本忠夫『貧国強兵』の内容ともかぶってしまうため、ここでは主にアメリカとの国力差を中心に見ていくこととしたい。
前項で日米の粗鋼生産を比較してみたが、主要な物資の生産量を日本1とした場合、1938年段階のアメリカの数値(つまり日本に対して何倍か)は次のようになる。
なお、1938年であるのは、統計データでまとまった数値が揃っているのがこの年だったからである。
石炭:7.2
石油:458.9
鉄鉱石:37.5
銑鉄:37.5
鋼塊:4.5
銅:5.3
亜鉛:7.5
鉛:31.3
アルミニウム:8.7
水銀:24.8
燐鉱石:45.2
出典:三和良一ほか編『近現代日本経済史要覧』(東京大学出版会、2007年)
上記はあくまで倍数であるが、資源・物資ともに日本の生産量とは隔絶した差が発生していることが判る。
元となる日本側の数値を調べられる限り調べて見ると、1938年の数値は次のようになる。一部、38年の数値が判明しなかった物資については、近い年のものを記した。
石炭:4868万4000トン(アメリカは7.2倍)
石油:39万1260キロリットル(アメリカは458.9倍)
鉄鉱石:34万3000トン(アメリカは37.5倍)
銑鉄:262万7000トン(アメリカは37.5倍)
鋼塊:757万4000トン(アメリカは4.5倍)
銅:9万5241トン(アメリカは5.3倍)
亜鉛:(1935年の数値)3万3051トン
鉛:(1935年の数値)7706トン
アルミニウム:3万2973トン(アメリカは8.7倍)
水銀:25トン(アメリカは24.8倍)
燐鉱石:150トン(アメリカは45.2倍)
出典:国際連合統計部(美濃部亮吉訳)『世界統計年鑑 1952』(日本教育研究所、1953年)、日本銀行統計局『明治以降 本邦主要経済統計』(日本銀行統計局、1966年)、矢野恒太記念会編『改訂第6版 数字でみる日本の100年』(矢野恒太記念会、2013年)
いろいろな資源でアメリカに劣っていることは明白だが、特に石油の差が他の資源と桁違いにかけ離れていることに、絶望的な思いすら抱いてしまう。
1938年当時、アメリカは世界第一位の産油国であり、この年だけで17億1036万キロリットルの原油を産出している。
後に世界随一の産油地帯となる中東の状況を見てみると、サウジアラビア6万7000キロリットル、イラン1035万9000キロリットル、イラク429万8000キロリットルと、まだまだアメリカに遠く及ばない。
ただし、サウジの産油量は翌39年には53万9000キロリットル、1943年には106万3000キロリットルと、爆発的に跳ね上がっていく。
ただ、戦前期、日本が中東の油田にまったく関心を抱いていなかったかといえば、そうではない。
日本の石油政策を主導したのは海軍で、海軍自体は中東の油田にあまり関心を持っていなかったようであるが、商工省や民間会社は関心を抱いていた。
特に1932年、イギリスから松平恒雄駐英大使を通して、イラクのモスル油田会社への出資を持ちかけられている。これを受けて外務省、商工省、海軍、日本石油、小倉石油の五者による検討会が数度開かれた。
だが結局、政府側が輸送コストがかさむ点などから消極的となり、民間二社も政府からの資金援助が受けられなかったためにモスル石油会社への出資を見送っている。このモスル油田は、1972年までイギリスの利権として経営され続けることになる。
1938年にはサウジアラビアから日本に対して油田利権の供与が持ちかけられ、商工省技師・三土知芳は後に大油田が発見されることになるハサ西部地区の利権獲得を目指したが、米スタンダード石油の利権と重なってしまうことや英米からの外交的妨害もあって、交渉は成功しなかった。
もちろん、たとえ交渉が成立しても、油田開発のための資金を日本が賄えたのか、またそれだけの技術があったのか、という問題が残り、このあたりのIFもなかなか難しい問題である。
なお、中東の油田地帯が発見されるまで世界一の油田地帯であったバクー油田を有するソ連の石油産出量は、1938年だと3220万キロリットルとなる。
ドイツ第三帝国にとって重要な石油供給源となっていたルーマニアは、1938年だと661万キロリットルで、ピークであった1936年の870万キロリットルから徐々に減少傾向が続くこととなる。
そして、ヒトラーが「春の目覚め作戦」を行ってまで保持したかったハンガリーは、1938年段階だと4万3000キロリットルだが、39年から14万4000キロリットルと急増し始め、1943年が最盛期となって83万9000キロリットルの石油を産出するようになる。
日本が太平洋戦争初期の南方作戦で確保を目指した蘭印の油田の産出量は、38年だと739万8000キロリットルで、当たり前だが日本の生産量を足してもアメリカの産出量に遠く及ばない。
日本海軍の対南洋方策研究委員会が買収を検討したとされるニューギニアの統計が資料に現れ始めるのは1947年からで、この時は200キロリットルと微少であるが、1949年には24万4900キロリットルと急増していく。
とはいえ、ニューギニア島の油田をもし日本が戦前期に入手出来ていたとしても、中東の場合と同じく、開発が難航して十分な量の石油は採れなかったであろう。




