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27 昭和戦前期日本の国力(2)

 前項では日米間でGNP、GDPを比較してみたが、当然、それ以外の国々との比較も必要となってくる。

 アメリカの数値と同じくOECDによる1990年ドル基準購買力平均換算の数値になってしまうが、主要参戦国の1936年段階でのGDPは次の通りである。

 何故1936年を抽出したかと言えば、この年が日本のワシントン海軍軍縮条約の廃棄、第二次ロンドン海軍軍縮会議からの脱退により、翌年以降、無条約時代の到来が確実となった年だからである。

 また、戦争による数値への影響を考慮しなくてもよい年という理由もある。


日本……1515億ドル

アメリカ……7992億ドル

イギリス……2713億ドル

フランス……1761億ドル

ドイツ……1929億ドル

イタリア……1308億ドル

ソ連……3613億ドル


出典:Angus Maddison, Monitoring the World Economy, 1820-1992, Development Centre of the Organisation for Economic Co-operation and Development, 1995.


 唯一、日本が勝っているのはイタリア程度であり、同じ島国国家であるイギリスにも2倍近い差をつけられてしまっている。イギリスの数値にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インドの数値が入っていないので、実質的には上記の数値以上の差が開いていた。

 もちろん、陸軍の仮想敵国であったソ連との国力差も歴然である。


 こうした国力差は日本が遅れて産業革命を成し遂げた国家であるという理由が大きい。

 特に日本で重工業が発展し始めたのは、日露戦争以後の時期である。

 日露戦争以前、1900年から1904年にかけての五ヶ年平均鋼材自給率は10パーセント前後と非常に低い水準であった。鋼材の元となる銑鉄についても、同時期の五ヶ年平均自給率は50パーセント弱でしかない。

 特に銑鉄の自給率については、1930年代に至っても1930年から34年五ヶ年平均66パーセント、1935年から39年五ヶ年平均69.5パーセントと、ほとんど進展が見られない。

 鋼材の自給率については1935年から39年の五ヶ年平均で100パーセントを超えるが、銑鉄の自給率が低い以上、根本的な部分で日本の製鉄業は脆弱性を抱えていたといえよう。


 全国経済調査機関連合会編『昭和十二年版 日本経済年誌』(改造社、1937年)によると、1936年の銑鉄の国内生産量は221万トン、輸入量は98万トン(内満洲より28万トン)であり(128頁)、合計は319万トン、海外依存率は約30.7パーセントとなる。

 ただ、同じ年の朝日新聞経済部編『朝日経済年史』(朝日新聞社、1937年)の11頁に記載されている「主要資源海外依存度」という表では、どういうわけか銑鉄の海外依存率が9.8パーセントになっている。満洲分の28万トンを差し引いたとしても約21.9パーセントになるので、どうしてこのような数値になるのか不明である。そして、三和良一ほか編『近現代日本経済史要覧』(東京大学出版会、2007年)でもこちらの数値を採用している。

 満洲以外の銑鉄の輸入先は、インド27万トン、イギリス2万トン、アメリカ6000トンと、意外にもアメリカへの依存度は低い。ただし、イギリス圏への依存度は非常に高い。これは、インドの銑鉄が安価だったことによる。

 一方、同じく1936年の屑鉄輸入量は150万トンで、こちらはアメリカに依存する体質であった。

 当時、鋼材を造るのに銑鉄10、屑鉄3の割合で混ぜ合わせていた。

 屑鉄が発生するためには、生産→使用→廃棄→回収という循環が必要になる。当時の日本では、自国の必要量を賄うだけの屑鉄の循環が生まれていなかった。

 やはりこれも、工業の後進性を表わしている。


 実際、ニューヨーク大学教授で戦略爆撃調査団の一員として占領期の日本を訪れたJ・B・コーヘン博士は、「日本の戦争経済の最も基本的な制約要素は鉄鋼生産の貧弱さにある」(J・B・コーヘン著、大内兵衛訳『戦時戦後の日本経済』上巻、岩波書店、1950年、169頁)と述べているほどであった。


 列強諸国で比較しても、1930年の日本の粗鋼生産量は228万トン、それに対してアメリカは4135万トン、イギリス744万トン、ドイツ1151万トンと圧倒的な差が付いており、アメリカは1930年代を通して常に世界の粗鋼生産の40パーセント以上を占めていた。対して、日本は2パーセントから3パーセントの間を彷徨っていただけである。


 産業別人口構成を見ても、日本は第一次産業中心の国家であった。

 1930年の日本の人口は、6387万人である。その内、就業人口は2962万人となっている。

 この就業人口を産業別で見てみると、次のようになる。


第一次産業(農林水産業):1471万人(49.7%)

第二次産業(鉱工業等):600万人(20.3%)

第三次産業(サービス業等):883万人(29.8%)


出典:三和良一ほか編『近現代日本経済史要覧』(東京大学出版会、2007年)


 圧倒的に、農業中心の就業人口割合となっている。

 同じく1930年の産業別純国内生産額を見ていくと、次の通りである。


農林水産業:19億8300万円(16.9%)

鉱工業:27億4200万円(23.3%)

製造業:25億2000万円(21.4%)

建設業:4億5600万円(3.9%)

電気・ガス・水道・運輸・通信:15億8600万円(13.5%)

商業・金融・保険・不動産・サービス・公務:49億9800万円(42.5%)


出典:同上


 GDPでは確かにイタリアに勝ってはいるが、そのイタリアの1931年時点での就業人口別の割合は第一次産業42%、第二次産業34%、第三次産業24%と、第二次産業に従事する割合は日本よりも高い。

 さらに気を付けなければならないのは、当時のイタリアは日本よりも2000万人ほど人口が少ないということだ。GDPを人口で割れば、確実に日本よりも高くなる。

 人口が多ければそれだけGDPが増えるのは当然で、むしろやはり2000万人ほど日本よりも人口が少ないイギリスにはあっさりと負けているのだから、日本の劣位は明らかである。

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