25 漸減邀撃作戦の可能性(6)
ただし、これはあくまでも純軍事的な観点からの疑問である。
日本側は戦前の想定通りに漸減邀撃作戦という迎撃計画を実施し、アメリカ側もウェーク・ミッドウェー近海での迎撃を企図しているとなると、互いの艦隊はそれぞれ柱島、真珠湾から動かないことになる。
もちろん、アメリカ側は空母部隊を使って南洋群島の空襲を行って日本艦隊を誘い出そうとするだろうが、南方作戦実施中の日本が史実ミッドウェーのように出ていくかは判らない。
山本五十六あたりは、ならば結局真珠湾攻撃をやるしかないではないか、となって再び真珠湾攻撃を主張し始めるかもしれないが、すでに開戦している以上、作戦の危険性は史実真珠湾攻撃の比ではない。
流石の山本も、南方作戦を今まさに実施している最中、そこまで強硬なことは言わないだろう。
結局、日本側としては南方作戦が成功するまでは、万が一に備えて艦隊決戦用の兵力を本土近海に留めておくことになる可能性が高い。
もちろん、南洋群島に出没する米空母部隊を追うために一航艦あたりは出撃することになるかもしれず、そこで意図せずに日米空母決戦が発生することはあり得る。
ただし、やはり戦前期から日本海軍が想定していた漸減邀撃作戦とは、様相を異にする海戦となるだろう。
場合によっては、戦艦同士の決戦すら起こらないかもしれない。
もっとも、これはアメリカ側があくまでも真珠湾に逼塞しているという選択肢をとった場合である。
むしろ、史実のドーリットル空襲などを見れば日本側よりもアメリカ側の方が出撃を強行する可能性は高いかもしれない。
確かに戦術的に見れば、1941年12月段階の太平洋艦隊の戦力で対日侵攻作戦に打って出るのは危険性が大きい。
しかし、東南アジアで友軍が次々と日本軍によって撃破されていき、日本が占領地を広げていく中、太平洋艦隊の主力が真珠湾に逼塞している状況を、政治が許すだろうか?
史実では太平洋艦隊の戦艦部隊が壊滅してしまったためフィリピン救援は行えなかったが、艦隊が健在なのに東南アジア救援に赴かないとなれば、それこそアメリカの国民感情や連合国陣営の連携という点からも考えて、批判は免れないだろう。
こうした政治的圧力の結果、太平洋艦隊が出撃する可能性は一定程度、存在するだろう。
また、日本が南方作戦に艦隊戦力を取られてしまっているため、今ならばその隙を突けると太平洋艦隊司令部も考えるかもしれない。
特にフィリピンでは史実でも零戦の航続距離の長さを知らないアメリカ側が日本空母が近海にいるかもしれないと判断していたことから、日本の空母はこの周辺にいて今ならば決戦時の空母戦力は自分たち(アメリカ)の方が勝っている、という認識に至る可能性はある。
そうした政治的圧力、南方作戦による日本艦隊の戦力分散、といった要因から真珠湾を出撃するというIFは成立するだろう。
ただしその場合、そもそも南洋群島を占領するための上陸部隊の準備が出来ていないため、古典的な対日侵攻作戦であった、真珠湾を出撃して洋上補給を繰り返しつつフィリピンへ向かう、という作戦がとられることになるだろう。
史実で海兵第一師団の集結が終わったのが1942年7月のことだから、流石にそれを待つことは出来ない。それでは、アメリカが東南アジアの友軍を見捨てたということになってしまう。
窮地に陥っている東南アジアの友軍を救援するため、かつての計画通りに真珠湾を開戦後30日以内に出港したとして、恐らく1942年1月頃に、マリアナ沖で日米艦隊決戦が生起した可能性はある。
空母戦力は6対3ないし6対4と日本側が圧倒的優位に立っており、史実ミッドウェーのように敵前で兵装転換をすることもないであろうから、空母決戦は日本側の圧勝に終わるだろう(どこかで史実のように伊六がサラトガを雷撃して落伍させてくれればなお良し)。
その段階で米太平洋艦隊は撤退を決意するかもしれないが、それを第一艦隊や一航戦が追撃すれば日本側が絶対的な制空権を握った状態での艦隊決戦や空襲を行うことが出来る。
1942年1月段階では戦艦大和が決戦に加わることはないであろうが、それでも先に記した兵力で日本艦隊は米太平洋艦隊の西太平洋来寇を撃退することが出来たであろう。
ひとまず、真珠湾攻撃ではなく漸減邀撃作戦を採用していたら、というIFについての考察はここまでとさせていただきます。
ここから先の戦況の展開については、やはりどうしても講和のための外交努力をしない限り、史実とは違った経過で同じ結果に至るだけでしょう。そして、当時の日本の指導者たちが明確な戦争終結構想を描けていなかったことがそもそもの問題なのですから、1941年12月8日以降の作戦上の歴史改変を行うだけでは、やはり限界があります。
さて、今回は海軍を中心に論じてきましたが、ここ10年ほどの間、海軍史研究は非常に進んでいるといえるでしょう。
博士論文からの書籍化という点だけで見ても、次のような成果が上げられています(年代順)。
手嶋泰伸『昭和戦時期の海軍と政治』(吉川弘文館、2013年)
太田久元『戦間期の日本海軍と統帥権』(吉川弘文館、2017年)
小磯隆広『日本海軍と東アジア国際政治』(錦正社、2020年)
木村聡『連合艦隊』(中央公論新社、2022年)
木村美幸『日本海軍の志願兵と地域社会』(吉川弘文館、2022年)
池田憲隆『近代日本海軍の政治経済史』(有志舎、2022年)
木村聡『日本海軍連合艦隊の研究』(北海道大学出版会、2022年)
特に昨年2022年は海軍史研究において多数の成果が世に出され、その中でも木村聡氏の著作・論文はこれまであまり海軍の政治史研究においてほとんど注目されてこなかった連合艦隊の政治的役割について解明を試みたという点で注目に値します。
木村氏は連合艦隊を海軍省、軍令部に並ぶ海軍第三の政治勢力として捉え、海戦史研究でのみ注目されてきた連合艦隊の新たな一面を提示しました。これまでの研究では、どちらかというと加藤寛治、末次信正、山本五十六といった連合艦隊司令長官経験者個人の政治的役割についてばかり注目されてきましたが、木村氏は組織としての連合艦隊の政治的役割について注目した点で従来の研究とは異なります。
また、個別の論文ではありますが章霖「大正期における海軍の艦隊行動と地域社会」(『史学雑誌』第129編第9号、2020年)は関東州への連合艦隊巡航を取り上げて、戦間期における日本海軍の砲艦外交を研究したという点で新鮮なものがあります。
この他、防衛大学校の田中宏巳氏が40年近く前から取り組んでおられた小笠原長生日記の研究が、『小笠原長生と天皇制軍国思想』(吉川弘文館、2021年)としてまとまった形で世に出されたことも喜ばしいです。
しかし一方で残念なことは、ここ10年の間に研究の道半ばで亡くなられてしまった海軍史研究者もおられることです。
平松良太氏、河尻融氏のお二人は、共に軍縮条約体制を中心に研究しておられましたが、その最中に世を去られてしまいました。
特に平松氏は29歳の若さで亡くなられており、加藤友三郎が海相を務めていた時代から海軍が軍縮条約体制を離脱する約20年間の海軍史研究が氏によって深化されないままに終わってしまったことは本当に惜しまれます。
河尻融氏も防衛研究所所長というお立場であったことも影響しておられるのか、海軍の軍事技術という観点から軍縮条約体制を再検討したところに新しい点がありました。
お二人の研究者に対して改めて哀悼の意を表すると共に、これからの海軍史研究が一層活発化し、深化していくことを願っております。