23 漸減邀撃作戦の可能性(4)
もっとも、山本五十六は航空戦力の威力というものを理解していたのであるから、軍令部が最終的に真珠湾攻撃を認めなかったとしても、やはり航空機を中心とした米艦隊迎撃作戦を練ることになるだろう。
山本だけでなく日本海軍自体も、前掲の松田千秋氏の言葉にあるように戦場海域の制空権を得ることの重要性を理解していた。
実際、日本海軍の空母の運用構想は、1930年代には敵空母の撃破という形でまとまっていた。
それは、空母蒼龍の建造と同時に、十試艦上軽爆機をドイツに設計を依頼しようとしたことからも読み取れる。最終的に、敵空母の飛行甲板を破壊するための高速爆撃機は、艦上爆撃機「彗星」として実現する。
ただし一方で、航空機による敵戦艦の撃沈については、日本海軍が戦前期にどこまで想定していたのか不明確である。むしろ、空母の搭載機を戦闘機と爆撃機に絞り込もうとしていた時期もあったことから、空母による米戦艦の撃沈までは考えていなかったと推察出来る。
もちろん、それが当時の一般的な航空戦力に対する認識であり、これが覆されるのは1941年12月10日のマレー沖海戦を待たなければならない。
ただ、日米開戦となった1941年12月には、すでに欧州戦線でタラント空襲、ビスマルク追撃戦で航空機の威力が確認されているわけであるから、敵空母を撃破した後、余力があれば敵戦艦の攻撃を行うという戦術に転換することは可能であろう。
こうして軍令部、連合艦隊司令部の間で、前項で示した艦隊兵力で米太平洋艦隊の迎撃が決定すれば、戦前の想定よりも戦力が少なく空母戦力頼みとなるものの、漸減邀撃作戦を実施することは可能であろう。
続いて問題とすべきは、アメリカ側が本当に日本海軍の待ち受ける西太平洋に来寇するか、ということである。
確かに、アメリカ海軍には「オレンジ計画」という対日戦争計画が存在していた。
これは、基本的には太平洋を西へ横断して、日本の委任統治領となっていた南洋群島を占領、そこに拠点を築きつつさらに西進して日本艦隊を撃破、その後フィリピンに入港して北上を開始、台湾、沖縄を占領、そこを拠点にした戦略爆撃によって日本を降伏に追い込む、という作戦計画である。
対日戦争計画は1906年より立案が始まり、その後、第一次世界大戦や戦後の国際連盟で南洋群島が日本の委任統治領とされたこと、ワシントン海軍軍縮条約の締結など、時代の変化に合せて変更が加えられていく。
上記に示した形に対日作戦計画がまとめられたのは、1928年のことである。
それ以前の対日戦争計画は、真珠湾を出撃した太平洋艦隊は途中の島々を占領することなく、洋上補給を繰り返して直接、フィリピンを目指す計画であった。
ただし、これはあまりにも無謀ということで海軍内部でも異論が多かった。
その結果が、1928年案の策定に繋がったのである。
南洋群島を占領して基地化し、そこから日本本土を目指して、最終的には戦略爆撃で日本を降伏に追い込むという、史実第二次世界大戦期のアメリカがとった対日作戦計画の原型は、この時期に確立したと言って良いだろう。
1928年案では、開戦当日に太平洋艦隊は真珠湾に集結、そこから30日かけて出撃準備を整え西太平洋への進撃を開始、開戦60日から90日にかけて南洋群島を占領しフィリピンを救出、開戦後120日にフィリピンを拠点として北上を開始、台湾を開戦後300日で、沖縄を360日で占領し、開戦後540日で奄美大島・大隅諸島を占領して日本本土への戦略爆撃を開始する計画となっている。
ただし、補給の問題、戦略爆撃機の開発の問題、長期戦に国民の戦意が持つのかといった問題などもあり、1934年にはいわゆる「ロイヤル・ロード案」に改定される。
こちらは補給線の確保を重視し、南洋群島を慎重に攻略しつつこの地域の拠点化することを目指したものであった。
ただ、これも日本による南洋群島の基地化によって困難と見なされ、1936年案、1941年案とさらに改定を重ねていく。
1941年案では南太平洋に迂回してラバウルを拠点にし、そこからフィリピンを目指す計画となっている。
ただし、これは太平洋艦隊司令部の反対もあって廃案に追い込まれている。
さらに1940年から1941年は大西洋方面の情勢も緊迫化の度合いを増しており、太平洋艦隊の兵力が少なからず大西洋に引き抜かれてしまうという事態に陥っていた。
事ここに至り、アメリカ海軍は対日戦争計画を当初の侵攻計画から迎撃計画へと変更することを余儀なくされた。
その内容は、史実の米空母部隊が行ったように日本の勢力圏に一撃離脱式の攻撃を仕掛けて日本艦隊を誘い出し、ウェーク島ないしミッドウェー島近海で艦隊決戦を行うというものであった。
まるで、史実のミッドウェー海戦の如き作戦構想である。
ただし、この迎撃計画には問題もあった。
フィリピンをどうするか、東南アジアにおけるイギリスとの連携をどうするか、という問題である。




