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大日本帝国のIFと架空戦記創作論  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞


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19 大東亜共栄圏というアウタルキー論(5)

 軍需産業の基盤を支える金属として、大東亜共栄圏内で決定的に不足していたのが銅鉱石であった。

 銅は小銃弾、薬莢、砲弾、旋条、さらには自動車や航空機、艦船の電気設備にも使われる必要不可欠な金属である。

 基本的に、銅は身の回りの工業製品のあらゆるところに使われている。


 昭和初期まで、日本は銅の輸出国であった。一時は、アメリカに次ぐ世界第二位の銅産出国だったこともある。

 しかし1933年以降、日本は銅輸入国に転落する。その輸入先はアメリカとチリであった。

 大東亜共栄圏内に、有望な銅鉱床は存在していない。正確に言えばインドネシア領西ニューギニアのイリアンジャヤ銅山とブーゲンビル島の銅山が存在してはいたが、開発は戦後である。

 辛うじてフィリピン・ルソン島のマンカヤン銅山とパナイ島のアンチケ銅山が存在していたが、米比軍による破壊とその後のゲリラ活動による日本人技術者の殺害が相次いだことで、思うように銅を内地に還送出来なかった。

 同じくフィリピンで産出するマンガン、クロムも銅と同じような有り様であった。


 鉛・亜鉛についてもほとんど同様で、これはビルマのボードウィン鉱山が該当するが、イギリス軍による撤退時の破壊と辺境故の輸送能力の限界、前線に近いことによる空襲などで、結局内地には一切、鉛・亜鉛を還送することが出来なかった。

 同じくビルマではニッケルも産出したが、やはり同じことであった。

 そして当然ながら、FS作戦は夢物語に終わったわけであるから、ニューカレドニアのニッケル、コバルトも確保出来ていない。

 戦前期の日本は、ニッケルのほとんどをカナダからの地金輸入に頼っていたから、大東亜共栄圏内でのニッケル取得が出来なければ、これは戦争遂行能力を左右する死活問題であった。

 日本は純ニッケルの10銭硬貨、5銭硬貨を1934年から発行しており、硬貨の形での備蓄は1200トンに達していたが、年500トンと予測された戦時需要から考えれば2年程度しか持たないことになる。


 さらに、自給自足圏という考え方からすると、どうしても日本のことだけを考えてしまうが、「大東亜共栄圏」と名付けられている通り、日本の支配地域には共に栄えるべき諸民族が存在している(実際に共に栄えたかは大いに疑問であるが)。

 これら諸民族は日本の進出以前は英米仏蘭などの植民地支配の下で生活しており、宗主国や植民地間での食糧の輸出入などで生活を成り立たせていた。

 特にフィリピン、マレー、蘭印は仏印、ビルマからの米の輸入に頼っており、食糧自給率は極端に低かった。

 日本の対英米蘭開戦はこれら植民地と宗主国との関係性を断ち、さらには植民地間での食糧供給網すら遮断することになってしまった。

 植民地支配の是非は置いておくにしても、少なくとも現地民を労働力として使う以上は、彼らの生活をそれまでの宗主国に代わって日本が保障しなければならない。

 しかし、当時の日本にそれだけの食糧はなく、むしろ戦前期の日本は米の輸入国ですらあった。

 その上、日本の船舶量は開戦当初から不足気味であったのだから、現地民の生活を守るために各地に食糧を輸送することも困難であった。

 そして、もちろん食糧の問題も重要であるが、それまでの宗主国との関係を断たれたために商品作物が売れなくなった東南アジアの人々は、生活に大打撃を受けることとなった。

 日本は軍票で何とかしようとしたが、当然ながら現地の経済は大混乱に陥ってしまう。

 特にフィリピンでは、大東亜共栄圏内で不足する綿花を確保するため、それまで砂糖を生産していた農家に綿花栽培が強制された。

 しかし、フィリピンの気候風土に合わない華北の品種を大量に植えたことなどによって、フィリピンでの綿花栽培は大失敗に終わってしまう。

 もちろん鉱山の事例と同じく、綿花栽培を指導する日本の農業技術者たちはゲリラによって次々と殺害されていった。

 そして綿花栽培の強制は、フィリピンの糖業を壊滅に追いやってしまった。戦前期には100万トンを超えていたフィリピンの砂糖生産量は、日本が終戦を迎えた1945年には17万トンにまで激減してしまったのである。

 日本は蘭印などでも綿花栽培の拡大を試みたが、その多くは虫害によってフィリピンと同じく失敗に終わっている。


 船舶量の不足から蘭印では採取したボーキサイトを現地でアルミニウムに精錬する計画を立案したが、当たり前だがそもそも船舶量が不足しているのだから工場を設立するための資材・設備を輸送することが出来ず、途中で計画は中止されている。


 結局、大東亜共栄圏は日本の長期不敗体制を支えられるだけのものではなかったといえる。

 それは現地で採れる資源もそうだが、それを内地に持ち帰り、製品として加工する日本の技術力・生産力・輸送能力が決定的に不足していたことも、大きな要因であった。

 大東亜共栄圏は「共に栄える」どころか、日本一国すら栄えさせることが出来なかった自給自足圏だったのである。


 もし最初から東南アジアが日本の植民地であったのならば話はまた別であったろうが、そうした歴史改変を行うには、それこそ朱印船貿易に代表される東南アジア貿易を行っていた戦国時代末期から江戸時代初期にまで遡って物語を描き出す必要が出てくる。


 植民地支配や戦争によらず、外交によって自国に必要な資源をどう確保していくのか。

 もし戦前期日本の国力を上げるために歴史改変をしていくのならば、その点が大きな問題となってくるだろう。

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