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大日本帝国のIFと架空戦記創作論  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞


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18 大東亜共栄圏というアウタルキー論(4)

 しかしともかくも、大日本帝国は「大東亜共栄圏」という自給自足圏を確立することで長期不敗体制を確立しようとしたのである。

 最後に、その実態はどうであったのかを見ていくこととしたい。


 まず、石油の内地還送についてである。

 これについては燃料懇話会『日本海軍燃料史』(原書房、1972年)の上巻に出ており、各種文献でも引用されているので、ここでも引用したい。

 なお、単位は1,000klである。


     生産量   還送量   開戦時予測

1942年 3,877   1,489   300

1943年 7,439   2,646   2,000

1944年 4,974   1,060   4,500


 これを見ると、開戦2年目までは開戦時の予測量を超える石油を内地に還送出来ていたことが判る。

 米潜水艦の跳梁が激しくなる44年の還送量は開戦時想定の4分の1以下にまで減じているが、それでも生産量そのものを見ると、なお開戦時の予測を上回っていた。


 これは、各油田施設を比較的軽微な損傷の内に確保出来たことに大きな理由があった。

 スマトラ島パレンバンの油田を、落下傘部隊で電撃的に占領したことは特に有名であろう。

 これら東南アジアの油田施設を稼働させるために、軍は民間石油会社の技術者たちを徴用した。

 陸軍は南方燃料廠をシンガポールに置き(当初はサイゴン)、海軍は第一〇一、一〇二海軍燃料廠を設置している(それぞれサマリンダ、バリクパパン)。

 最盛期には陸軍で軍人・軍属8000人、現地民など10万人、海軍で軍人・軍属7000人、現地民など3万人が働いていた。

 彼ら石油技術者たちの奮闘と悲劇については、『石油技術者たちの太平洋戦争』など石井正紀氏の一連の著作に描かれている。


 その石油を内地に送るための油槽船であるが、開戦時の保有量は113隻、約55万総トンでしかない。

 アメリカが同時期に347隻、約406万総トンを保有していたことを考えると、日本の石油輸送能力は貧弱であったとしか言い様がない。

 開戦後に「第一次船舶建造計画」が実施されたものの、それで建造された油槽船は、42年5万総トン、43年14万総トンに過ぎなかった。

 このため、既存の貨物船、鉱石船などを改造し、主に南方での石油集積輸送に投入された。

 戦時標準船であるTL型、TM型、TS型、ES型の油槽船がそれぞれ建造されて油槽船の増勢に努めたものの、1943年には連合軍の攻撃によって約38万トンもの油槽船が失われ、44年75万トン、45年32万トンと、建造したそばから失われていく始末であった。

 そのために生産量に対する原油の喪失率も、42年59パーセント、43年70パーセント、44年86パーセントと高い比率になってしまっている。


 次に鉄鉱石であるが、戦前から日本ではマレー半島に石原産業、日本鉱業、台湾拓殖などが進出して鉱山の操業を行っていた。

 1939年の南方からの鉄鉱石輸入量は、300万トン以上に上っている。

 しかし、占領後、これらの鉱山からの内地還送量は激減してしまった。

 理由としては、鉄鉱石を輸送するための鉱石船を、日本は42年時点で9隻しか保有していないことであった。

 そのため、企画院は鉄鉱石の取得先を南方ではなく内地に近い大冶鉱山や海南島に変更していた。

 さらに言えば、日本の製銑能力の限界から、内地に鉄鉱石を還送しても在庫過剰になる事態も発生していた。

 戦前期にはアメリカから銑鉄とスクラップを輸入して製鉄業を支えていたのであるから、当時の日本では高炉ではなく平炉の割合が多かった。銑鋼一貫生産能力に限界があった以上、鉄鉱石を大量に確保出来ても製鋼が進まないという事態が発生したのである。


 同じような現象は、アルミニウムの生産でも発生している。

 もともと日満経済ブロック、日満支経済ブロック圏内ではボーキサイトはほとんど産出せず、代わりに礬土(ばんど)頁岩が豊富に採れた。

 そのため日本国内、特に軍は国防上の観点から、コストや出来上がったアルミの質に難のあるものの、礬土頁岩からのアルミニウム生産に固執した。

 1930年代当時、アルミニウム生産を行っていた主要な会社は、住友化学、日本電工、日本曹達、古河電工、日本アルミニウム(三菱、三井、古河、台湾電力などが出資した会社)などであったが、これらアルミニウム生産会社の資本金の87パーセントは礬土頁岩からのアルミナ生産方式に投入されていた。


 なお、他に関東軍の斡旋などによって満洲国に1933年、日満アルミニウムが、36年に満洲軽金属製造が設立されている。


 国内の会社でボーキサイトからのアルミナ生産方式を当初から採用していたのは、日本曹達と日本アルミニウムだけであった(そもそも日本アルミニウムは1935年、主として蘭印ビンタン島から採れるボーキサイトからアルミニウムを生産するために設立された会社。ただし、蘭印からのボーキサイト輸入は経済制裁の影響によって1941年6月に途絶する)。

 しかし開戦後、ボーキサイトが豊富に採れる蘭印のビンタン島を占領すると、この礬土頁岩用のアルミニウム生産設備では対応出来なくなってしまった。

 ボーキサイト還送量のピークとなった1943年、南方から還送した92万4769トンのボーキサイトから生産出来たアルミニウムは12万3397トン(礬土頁岩からの生産量は除いた数値)、アルミニウム1トンに対し5トンのボーキサイトが必要であることから逆算すると、実際に使われたボーキサイトは61万6985トンでしかない。

 30万トン近いボーキサイトが、アルミニウムに生産出来なかったということになる(資料によってはボーキサイト還送量79万トン説もあるが、いずれにせよボーキサイトを使い切れていない)。

 つまり鉄鉱石と同じく、アルミニウム生産力の限界から、ボーキサイトの在庫過剰になってしまったのである。


 しかし、輸送能力や生産能力の問題を別にして、資源の産出量だけを見れば、石油、鉄鉱石、ボーキサイトについてはある程度、日本の需要を満たせていたといえる。

 もちろん、産出した資源を活用出来ないところに日本の技術力・工業力の根本的な問題があるのだが、ともかくも資源の確保という点だけを見れば成功していたと評価出来る。


 問題は、確保出来なかった方の資源である。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] アルミニウムに関して、以前こちらの論文、エッセイに目を通してみていたのですが、ちょっと経緯に食い違いがあるようです。 https://www.uacj.co.jp/review/ua…
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