16 大東亜共栄圏というアウタルキー論(2)
筆者の手元には、興中公司の作成した「将来井陘炭ヲ利用シテノ石炭低温乾留工業」という史料が存在する。
井陘とは河北省の地名であり、炭鉱よりもむしろ「背水の陣」の故事となった「井陘の戦い」の方が有名であろう。
この史料が作成されたのは1936年9月であり、「第一次北支処理要綱」、「第二次北支処理要綱」に基づいてまさに華北分離工作が進んでいる時期であった。
石炭乾留とは、簡単に言えば製鉄のために必要なコークスを作るための石炭処理工程である。
この史料では石炭乾留に必要な工業用地や炉などのための資本金や採算予測などが書かれており、合せて人造石油工場の建設についても述べられている。
史料では、フィッシャー法を用いてコーライトから人造石油を製造する計画であったことが判る。
興中公司による試算によると、コーライト4.6トンから人造石油1トン(300ガロン)が得られるということであった。
ちなみに、石炭を低温乾留して得られるコーライトの量は、元の石炭の質量の65パーセントであると史料では述べられている。
実際のところ興中公司でどれだけ石炭液化事業が成功したかを示す史料は筆者の手元にはないが、満鉄で行われていた撫順炭田におけるオイルシェール事業、興中公司と同じく石炭低温乾留による人造石油の製造を試みた東京瓦斯、日本窒素、日産化学などの結果を見ても、ほとんど計画だけのものに終わったと考えられる。
日本において人造石油事業が成功しなかった最大の原因は、まず工場設備を自前で造る技術力がなかったからである。
特に1939年9月より始まった第二次世界大戦によって、海外からの機械設備の輸入はほとんど絶望的になってしまった。
このあたりにも、日本がアメリカによる石油禁輸を理由に開戦を決意した理由の一端がある。
さて、ここまで主に石油問題について述べてきた。
日本の資源問題といえば、今も昔も真っ先に「石油」が挙げられるだろうが、日本に不足していた資源は何も石油だけではない。
永田鉄山らの構想に始まった「日満経済ブロック」、「日満支経済ブロック」の実態はどのようなものであったのかを、次に見ていきたい。
まず日満貿易であるが、これは1931年の満洲事変以降、日本からの輸出(満洲国の輸入)は激増した。
そのピークは1939年で、この年の日本の対満輸出額は7億円を超える。この原因は、日本から鉄道車両や工業用機械、機械部品など資本財の輸出が急速に増えたことにある。
つまり、日本は満洲国の工業化を推し進めていたわけである。
このことは日本の対満輸入に明確に現れており、それまで大豆類と石炭の輸入が7割以上を占めていたのが、1940年には3割強にまで低下する。代わって、工業製品や化学肥料の輸入割合が増えていく。
ただし、日本の対満輸入はピーク時の1930年代後半でもようやく3億円を超えた程度で、日満貿易は圧倒的に日本側の輸出超過であった。
次に日本と中国(ここでは、日中戦争後の日本の占領地域を指す)との貿易を見ていくと、日本からの輸出は1939年時点で約4億4千万円、輸入は約2億6千万円と、やはり日本側の輸出超過となっている。
では、日本は中国占領地域から何を得ていたのか?
まず日本が華北に期待した資源の一つである綿花であるが、これは日中戦争勃発前に比べて2割弱に激減してしまった。
占領地における流通機構の再構築の失敗や戦禍による荒廃の他、日本の占領地が主に都市部を結ぶ「点と線」であったために、特に中国農村部に浸透していた共産党が日本への綿花の搬出を阻止していたからである。
つまり、綿花について言えば、日満支経済ブロックの構築によって逆にブロック圏外への依存度を高めるという皮肉な結果をもたらしたのであった。
続いて、華北の大冶鉄山を始めとする鉄鉱石について見ていく。
日中戦争前の1936年では、中国の日本に対する鉄鉱石の輸出量は125万トンであったのが、1938年には14万トンにまで激減している。
やはり、戦禍による鉱山の破壊とそれによる復旧に時間がかかったことが原因であるが、ようやく100万トン台に回復したのは海南島占領後の1940年になってからであった。
この年の日本の中国からの鉄鉱石輸入量は117万トンである。
結局、これも綿花と同じ構図である。
戦争による支配地域の拡大とそれに伴う戦略資源の自給というのは、かなりの幻想が含まれた構想であるといえよう。
なお、日満支経済ブロック構築後の自給率の変化に関しては史料が存在していないわけではないのだが、欧米からの経済制裁や第二次世界大戦の影響による輸入杜絶などの影響もあって、見かけ上の自給率は上がっているという、扱いの難しいものとなっている。
これについては、今後の課題としたい。




