14 海上護衛戦(2)
ドイツからの技術供与で三式探信儀を開発した日本ではあるが、ドイツにはまだGHGという優れた水中聴音機が存在していた。
これは舷側に多数のマイクロフォンを装備した聴音機であり、重巡プリンツ・オイゲンはこれを片舷あたり60個、装備していたといわれている。オイゲンはこの聴音機によって速力20ノット、距離27キロで潜水艦を探知出来たという。
今日、フルトヴェングラーら名だたる名指揮者たち、そしてベルリン・フィルなどによる戦時中の演奏が良質な音源として残されているのも、こうしたドイツの優れた技術力によるものである。
それはさておき、たとえインド洋に日独連絡航路が打通され、史実以上にドイツからの技術供与が容易になったとしても、水中聴音機の実用化と実戦配備が1944年以降となってしまっては、やはり遅きに失してしまう。
対潜戦闘の技術・練度ではどうしても英米に劣っている以上、日本側としてはもっと根本的な対策をとる必要がある。
まず、船団護衛を担う海上護衛総司令部という艦隊の創設であるが、史実では1943年11月15日と、開戦からすでに2年目を迎えようとしている時期であった。
ただし、第一、第二海上護衛隊の創設は1942年4月10日であり、南方作戦の完了と同時期に海軍は海上護衛作戦にある程度の取り組みを見せていたと評価することが出来る。
第一海上護衛隊は本土―シンガポール間、第二海上護衛隊は本土―トラック間の船団護衛を担当していた。
戦前の艦隊編制から考えれば、これだけでも大きな進歩であった(そう評せざるを得ないところに、日本海軍の海上護衛に対する戦前期からの研究の甘さが見て取れるが)。
ただし、第一海上護衛隊は南西方面艦隊の指揮下、第二海上護衛隊は第四艦隊の指揮下にあるなど、統一的な運用はなされていない実態があった。
後方海域を担当する部隊からは、それぞれの海域で護衛を引き継がなければならないので不利不便であるとの意見が軍令部や連合艦隊司令部に出されている。
こうした点から、船団護衛の統一的な指揮を行うという理由によって史実よりも早期に海上護衛総司令部が創設される可能性はある。
ただし、史実で海上護衛総司令部の創設が遅れた原因は、海軍や政府の認識という問題の他に、前線に護衛のための戦力が引き抜かれていくという状況があったことも考慮に入れる必要があり、海軍が船団護衛の統一的な指揮運用を行う必要性を認識するとともに、前線が一定程度、小康状態に陥っていないと海上護衛総司令部の早期創設というIFを成立させる条件は揃わないだろう。
次に、そもそも敵潜水艦を後方海域に侵入させないという対策も必要である。
史実では、潜水艦阻止帯として機雷堰を設置して後方海域への潜水艦の侵入を阻止しようとしていたが、機雷堰の設置が本格化したのは1943年中頃であり(それ以前は本土近海の一部に機雷堰を設置するだけであった)、しかも台湾海峡など南方航路の重要な海域に機雷堰が設置され始めるのは、1944年になってからであった。
それでもこの機雷によって失われた米潜水艦は7.5隻と、艦艇に次ぐ戦果を挙げているのだから、早期に機雷堰の設置に取りかかればさらに多くの米潜を機雷に引っ掛けることが出来たと考えられる。
史実では、海上護衛総司令部からの具申に対して、軍令部が機雷を対ソ戦のために温存しておきたいと主張したことで本格的な機雷堰の設置は遅れてしまった。
このあたりの問題をどう片付けるのかが問題であるが、やはり海上護衛総司令部の創設と同じく、敷設艦に余裕が出る戦線が小康状態に陥っている間に実行する必要があるだろう。
開戦前の機雷の備蓄は2万9000個、1942年の生産量は1万5000個であり、東南アジアの島嶼部を地形的障害として利用しつつ潜水艦阻止帯としての機雷堰を設置するのであれば、およそ4万2000個の機雷が必要であるとされる。
海軍が決断さえしてしまえば、物理的に機雷堰の設置は可能だったのである。
もちろん、当時の日本海軍が保有していた機雷がすでに旧式化していた接触式の九三式機雷であったことには留意すべきであろう。
それでも、ドイツからの技術供与によって磁気機雷である三式機雷を開発してはいるが、実戦投入には至っていない。
日独連絡航路の打通によってこうした機雷技術についても導入が進めば、機雷堰の効果は史実よりもはるかに上がるだろう。
その上で、拙作「蒼海決戦」シリーズでも描写したように、米軍の潜水艦基地となっていたオーストラリア西岸フリーマントルと東岸ブリスベンの港湾施設を破壊することも重要である。
史実では開戦劈頭、フィリピン・キャビテ軍港に保管されていた潜水艦用魚雷233本が空襲によって失われ、米潜水艦部隊の活動を一年にわたって制約し続けた。
フリーマントルとブリスベンの港湾施設が破壊され、またしても大量の魚雷を失うことになれば、アメリカとしても対日通商破壊作戦に支障を来さざるを得ない。
そうして初めて、日本の輸送船はアメリカ潜水艦の脅威から守られることになるだろう。
もちろん、最初から日本の支配領域に対して船舶量が不足していたということも合せて考える必要があるだろうが、最低限、潜水艦による輸送船の被害を極限しない限り、長期不敗体制の確立は困難となる。
ただ、やはり1941年12月8日以降の改変だけではこの問題は解決出来ず、必然的に戦前期からの歴史改変を行っていく必要があるだろう。




