10 インド洋の旭日旗(5)
このようにして英東洋艦隊の撃滅とインド洋での連合国海上交通路に打撃を与えた日本海軍が次に何を目指すのか、それはアメリカ側の動向などもあっていくつかの可能性が考えられる。
まず、流石に一航艦は内地に戻して一度、艦の整備や乗員の休養などが必要となる。
実際、史実でも草鹿龍之介参謀長は艦艇の整備や搭乗員の入れ替えによる再訓練などに二、三ヶ月は充てるべきと主張していた。
海戦以来の歴戦の搭乗員を教官として後進の搭乗員育成に充て、その新任搭乗員たちの訓練にそれ相応の時間が必要と考えていたのである。
史実では珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦など矢継ぎ早に次の作戦が実施されたために草鹿の構想は実現しなかったが、軍令部・連合艦隊司令部ともにイギリス打倒を第一に考える形でのアメリカの戦意喪失を狙っている場合はどうであろうか?
史実でニューギニアのラエ、サラモア、ポートモレスビーの攻略の命令が連合艦隊に下されたのは1942年1月29日である。
これを受けて、第四艦隊が3月から4月にかけて順次、攻略を行うことになっていた。
「今後執ルヘキ戦争指導ノ大綱」が大本営政府連絡会議で決定されるのは3月7日であるから、そこでイギリス第一主義がとられたとしても、海軍、特に軍令部は米豪分断にこだわっていたのであるから、南太平洋方面での作戦は、どの道、行われただろう。
問題は、陸軍がどこまで協力的になるか、ということである。
史実では陸軍も豪州北部を抑えることの重要性は認めていたから、ポートモレスビー攻略に部隊を出すことに同意していた。この結果、史実ではMO作戦が実施され、珊瑚海海戦が生起することになる。
しかし、『戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊』第二巻(朝雲新聞社、1975年)の記述を見てみると、当初、陸軍が同意していたのがフィジー、サモア、ニューカレドニア攻略であったことが判る。
これが1942年1月26日のことであるから、その上で史実と違う戦争指導方針を示した大綱が決定されたとしても、南太平洋方面の作戦は行われることになると考えられる。
ただし、史実ではラエ、サラモア攻略の際、3月10日に米空母部隊の空襲を受けて輸送船4隻が撃沈され、ポートモレスビー攻略は一時延期されることとなった。
もしセイロン沖海戦で南雲艦隊が英東洋艦隊を完膚なきまでに撃滅したとなれば、それまでインド進攻作戦、セイロン攻略作戦に消極的であった参謀本部も前向きになる可能性がある。
史実で陸軍がセイロン攻略作戦準備を命じたのが6月末であり、これは北アフリカ戦線におけるロンメル将軍率いるドイツ軍の快進撃に影響されてのことであった。
英東洋艦隊を撃滅したとなれば、それよりも早い段階で田中新一作戦部長などがセイロン攻略などに積極的になる可能性はある。実際、南方総軍では1941年12月11日の段階でセイロン攻略、西亜打通を参謀本部に具申しているのだから、ロンメル将軍の攻勢を待たずして陸軍が西進作戦に前向きになる余地はあるだろう。
こうしたことを考えると、陸軍が逆にラエ、サラモアでの損害などもあり、史実以上にポートモレスビーに兵力を出すことに消極的になる可能性がある。史実でも陸軍は海軍に空母部隊による輸送船団の護衛を要請しているわけであるから、むしろ米空母による輸送船団空襲の危険性が少ないインド方面に目を向けることになるだろう。
そうなれば海軍単独でのポートモレスビー攻略など不可能で、史実ではモレスビー攻略の失敗からガダルカナルに航空基地を設営することになったのが、この場合ではそれよりも早い段階でガ島の飛行場設置に動き出すものと考えられる。
ガ島の飛行場建設が史実よりも早まるという考察については、拙作「暁のミッドウェー」補論3で行ったので、そちらに譲りたいと思う。
さてそうなると、陸軍が前向きになったことでセイロン島攻略に取りかかれる余地が生まれたことから、一航艦は二度目のインド洋作戦に備えて整備などに入ることになるだろう。
草鹿参謀長の要望通り、熟練搭乗員による後進の育成が進めば、それだけ海軍の母艦航空隊の継戦能力は上がることになる。
実際にセイロン島を攻略するとして、時期としては雨季を避けた7月から9月の間ということになろう。
同時に援蒋ビルマルートも完全に封鎖してしまうのであれば、ビルマ方面からのインド進攻作戦も行いところであるが、この地域は5月から9月にかけて雨季に入ってしまうので陸上からの進撃はかなり難しいことになるだろう。
輸送船で一気にカルカッタあたりまで運んでもらった方が、むしろ効率が良いと思われる。
問題はそれだけの船舶量が確保出来るのかということであるが、時期的に南方作戦で使用した大量の船舶が存在しているはずなので、これが使えるはずである。
1942年12月末までの解傭に間に合わせるという意味でも、陸軍によるセイロン島攻略は1942年中に行う必要がある。そうでなければ、史実ガダルカナルのように前線に輸送船が引き抜かれて解傭出来ず、民需が圧迫されて国内での生産に多大な影響が出てしまう。
史実で南雲艦隊が内地に帰還したのは4月22日。
ここから整備や訓練などに二、三ヶ月を費やしたとしても、8月にはセイロン攻略作戦に取りかかれるはずである。
しかし、艦隊の内地帰還直前の4月18日、本土初空襲であるドーリットル空襲が発生する。
この事件が日本のイギリス第一主義という戦争指導方針にどのような影響を与えるのか、それについても考察する必要があるだろう。




