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ソの間  作者: 芦屋奏多
3/9

第3小節

 天音は自宅近くにある貸しスタジオに入っていた。


 自宅にピアノの無い天音は、音楽教室に通いながら貸しスタジオで練習をしていた。


 学校でギリギリまで練習しているのは、単に天音の練習場所が限られているという理由だった。


 それでも、灯里と一緒に音を探すのは、天音の望んでいる音を灯里は持っていて、灯里の欲しがっている音を天音が持っている。


 お互いが欲しいものを持っている。


 それをお互いが探している。


 妙な話だが、事実としてそれが成り立っていた。


 灯里の持っている音を吸収し、天音の音は良くなっていく。


 灯里も天音も相乗効果で音を高め合っている。


 その関係に、天音は納得している。


 天音は貸しスタジオの中でピアノを弾いていた。


 天音は店員に、貸しスタジオの常連として覚えられている。


 それほど、集中して通っているという証だった。


 この日も、天音は自分の名前とメンバーズカードを差し出す。


 店員はそれを確認もせずに、いつもの部屋を用意する。


 天音が通されるのは貸しスタジオには珍しいグランドピアノのある部屋だった。


 近郊でグランドピアノを置いている貸しスタジオは中々ない。


 この場所ほど、天音が自由に弾ける空間はなかった。


 けれど、自由に出来る空間はあっても、自由に使える時間は限られている。


 天音は、部屋に入るとすぐにピアノの前に座る。


 指をピアノに添えるように置くと、重力に任せ押しつぶすように和音を叩いた。


 灯里ほどの速度はなく、ただ感情に任せ、ピアノを弾き潰す。


 白鍵と黒鍵が軋む。


 体重を預けた椅子がぎしぎしと音を立てた。


 何度も何度も、左手で和音を描き、右手で旋律を奏る。


 天音は呟く。


「違う……! 違う! 違う!」


 天音はソの音を叩く。


 その音を、叩く。


 不機嫌な子供のように、激高するように叩く。


 そして、ふっと我に帰ったかと思うと、今度は心を鎮めるために目を閉じた。


 これは天音なりの集中方法だった。


 目を閉じると、自分の中の世界にピアノの音が鳴り響く。遠くから聞こえる、正しい音。その音を目印に、ゆっくりと辿る。そして、その音が近づいてくる。


 はっきりと聞こえる位置までくると、指をピアノに乗せ、落とす。一瞬の気の緩みも許されないほど、天音の指は柔らかくソの音を弾く。


「違う! 違うんだよ!」


 やり場のない苛立ちを抱えると、天音は髪を掻きむしり膝を叩く。


 ロングの黒髪が乱れる。


「はあ……」


 ため息の後、またも深呼吸をして集中に入る。


 何度も、集中してはピアノを叩き、ピアノを叩いては集中する。


 天音のこの行動は一種のルーティンだった。そうして作り上げる音は至高のものとなる。


 それは天才と謳われている灯里にも認められるほどだった。


 灯里の音楽への才能は、突出しているという言葉では表現出来ない域に達している。


 それは、単なる音楽へのセンスが優れているという評価だけではなく練習量や思考力、行動力なども含めてのものだった。


 あの音に近づきたい、と切々に感じているのは、天音だけではなく、灯里も同じだった。


 灯里も天音の音に嫉妬し、天音も灯里の音に嫉妬している。


 互いが同じ極を持ち、互いを反発し、そして惹きつける。


 天音は幾通りもルーティンを繰り返し、時間いっぱいまでピアノに向き合う。


 ピアノに向き合う時間は一瞬のように感じ、永遠を閉じ込めてしまったような感覚にも近かった。


 ピアノを永遠に弾ければ、天音も極上の音に近づける。


 その音があれば、更に永遠の高みに近づける。


 その繰り返しこそが、至高の変遷である。


 けれど結局、満足のいく音は見つけられないまま、天音は帰り道に着く。


 外は薄らと白んでいる。


 夜の街は煌々と明かりを漏らし、夕闇は姿を消していた。


 街灯の照らす夜道を真っ直ぐ歩く。


 すると、天音の耳にか細い高音を爪弾く音色が聞こえてきた。


「何だ? この音は?」


音の鳴る方へ天音は近付く。


「あ……」


 そこには怪我をしている子猫がいた。右の前足を怪我していて、親猫を探しているようにも見えた。


 おぼつかない脚で、子猫は逃げようとする。


「ちょっと待ってろよ」


 天音は子猫を横目に、携帯で電話をかけた。


 深呼吸をして、いつものようにルーティンで心を鎮めた。


 数回のコールで電話が通じ、天音は頬を綻ばせ、子猫を拾い上げ歩き出した。

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