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ソの間  作者: 芦屋奏多
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第2小節

 灯里は毎日自宅のピアノで練習をする。


  一日も休む事はなく、その内容は同学年の受験勉強や部活動への熱心さとは、まるでかけ離れているほどの内容の濃さだった。

 週に平均で十時間ほど練習し、その間も高校にも通っている。

 灯里にとってそれは十何年と繰り返してきた、日常だった。


 夜になれば眠り、朝になれば起床し、お腹が空いたらご飯を食べる。ピアノの音は常に頭の中を流れている。それは、頭の中で演奏しているようなものだ。


 どんな時にも心や頭にはピアノの旋律が溢れる。


 イメージ上で左手は波を打ち、右手は強く流れる。


 繰り返し反復する行動を、一つ一つ練り上げていく。


 ほんの少しのずれも許されない。


 一瞬の迷いや躊躇いがあれば、音は一気に陳腐なものへと成り下がる。


 右手が駆け上がる速度、左手が鍵盤を叩く強さ、流動的なほど、滑らかで素早く、正確さも必要になり、失敗をしてしまえば、何もかもが崩れ去る。


 目で追っている暇はなく、感覚だけで音から音へと飛ぶ。


 一オクターブや二オクターブの移動に、いちいち目で追っている余裕などない。


 感覚を研ぎ澄ませ、流れに身を任せ、作曲者を身体に呼び込み、鍵盤に踊る。


 想像に想像を上書きして行く。


 そうしてイメージを固めていき、想像で膨らませたイメージを現実に起こそうと、灯里はピアノの前に座る。


 深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。


 触れるよりも優しく、ピアノに指を添える。


 始まりは繊細に、何よりも愛しいものに触れるように弾く。


 指先が撫でるように奏る。


 奏る指は徐々に強さを増し、ピアニッシモからフォルテへと駆け上がっていく。


 何度も何度も、ピアノの弦をハンマーでたたく。


 一瞬でも油断をすると、ピアノの音は灯里の望むものとは程遠くなる。


 離れていかないように、灯里の指は必死に追いかける。


 もう少しで、届くはずの場所に、必死で手を伸ばす。


 その手が、灯里の手を拒んでずっと遠いところへ落ちていく。


 待て、と灯里はハンマーを叩く。


 叩き叩き、追いつく為に何度も叩く。


 ふっ、と意識がはっきりとし、目がピアノを捉える。


 照準のあった視界でピアノを見つめ、深いため息を吐いた。


「違うんだよなー。天音ちゃんの音みたいに、生きてる音が欲しいんだよなー。どうやったら、イメージを形に出来るんだろう……」


 灯里はピアノのイメージの音を採譜する。音符を落書きのように書き記す。


「こんな感じかなー。でも、これだと、このラの音が潰れちゃうんだよなー。天音ちゃんのラは綺麗なんだけどなー」


 ピアノの前で灯里は自問自答を繰り返す。


 音に対しての概念が灯里の中で膨らむ。


 もっと美しく、もっと力強く、もっと繊細に、という芸術的な観点ではなく、最も根源的なものを灯里は探していた。


 生きている音。


 死んでいる音。


 天音にあり、灯里にはない音。


 灯里は、天音の音に執心する。


 もっとあの音が自分の手の届くところにあればいいのに、と願い、ピアノを叩く。


 けれど、手の中に残る音は機械のように正確で速い、音の粒だった。

「なんでこんなに……。ダメだダメだ。もっと頑張らないと。あの音に近づかないと……」


 独りで自分と会話をする。


 灯里は何度も自分と話し合いをする。


 灯里にとって、ピアノは恋人であり家族であり、友人でもある。


 そんな寝食を共にしたピアノは、たまに凶暴に敵意を向けてくる。


「灯里、もう少しでレッスンが始まるでしょう。急ぎなさい」


 ピアノを弾くための防音室に母親が訪ねてきた。


「ママ、毎日驚かさないでよ。急に声かけられたらびっくりするじゃない」


「しょうがないじゃない。防音室なんだから。ほら、先生が待ってるわよ」


 言い残すと、母親は部屋から出て行った。


 ラベンダーの仄かな香りが防音室に残った。


 残り香が灯里の心に虚無感を与える。


 母の期待と自分への苛立ち。ないまぜになった二つの感情が、明里を奮起させた。


「今の私じゃダメなんだ。もっと……、もっと音を聞かないと……」


 灯里は目を閉じて集中する。


 集中したまま、ラの音を叩く。


 防音室に響いていく。


 残響が広がり、宙を舞った音が収束する。


 灯里は溜め息と一緒に呟く。


「……やっぱり、無理かー」


 灯里のため息とピアノの音が混ざり、防音の壁に沈んでいった。

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