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女の隠れ道②

 数日後、小池京子から電話があり、『サクランボ会』の新年会を新宿の居酒屋『魚民』でやるというので、あらかじめ哲郎や奈々や孝太に、自分たちで夕食をするようお願いして、新年会に出席した。前年末、忘年会で集まった五人で、いろんな料理を註文し、ビールで乾杯し、友情の継続を誓い合った。女子大時代の四年間、共に机を並べて学業に励んだ仲間との飲み会は楽しかった。お互いに女子大生に戻った気分で、自由闊達に思っていることを喋り合えた。前回、余り喋らなかった吉村美絵と北条節子もすっかり仲間に溶け込んで、個人的な事を口にした。不動産会社の事務をしている美絵は、夫の実家の敷地内の別棟で暮らしているので、実家との付き合いが多く、大変だとぼやいた。私も新百合ヶ丘に自宅を構えるまで、同じような状態だったので、彼女の苦労が良く理解出来た。北条節子は夫が区役所に勤めていて、役所内の女性と浮気しているのではないかという不安があると話した。子供は病院が経営している幼稚園で面倒を見てもらい、成長して、今は近くの私立中学に通っているという。この節子の悩みについて、京子も彩華も、私の時と違う意見を言った。真実を突き止めよなどと節子には言わなかった。まず京子がこう言った。

「何も悩むことはないわよ。そもそも浮気しない男なんて希少価値的存在だから。旦那さんは、いずれあなたの所へ戻って来るから悩んだりしないの」

「そうよ。私たちだって、心の中で、あの人、素敵だわなんて思う事あるでしょう。問題は浮気が本気にならなければ良いの」

「京子はそう言うけど、京子の旦那さんは、京子の所に戻って来て、大人しくしているの?」

「うん。今のところ、大人しく仕事に行っているわよ。夫は年末になって、自分が弄ばれ、からかわれていたことに気づいたのよ。女は年末、面倒になって、夫を私の所へ突き返したのよ。そこで私が怒り狂って、彼を追い出そうとしたら、彼がしがみついて泣くものだから、またよりを戻しちゃったの」

「良かったじゃあない。そこで京子が強情を張って、追い出したら、それこそ可哀想よ」

「そうね。夫が女に裏切られたのだと知ったから、許すことが出来たの。でも、うちの夫、若くてハンサムだから、女にもてるのよ」

 どうしてなのか、私たちが集まると、必ず男女の話になってしまう。独身の横川彩華は、鼻筋の通った理知的な顔をして、貿易会社の船田社長と台湾旅行を楽しんで来たと話した。彼女には同じ会社に勤める恋人がいるが、結婚を約束している訳ではないので、船田社長と海外旅行しても、何の罪悪感は無いと言った。あるのは船田社長の方であって、自分には無関係だという考えだった。私は渡辺次長の事を質問されたが、軽く受け流し、むしろ奈々のことが心配だと話した。

「最近、奈々の方が私よりオシャレに心掛けるようになっているの。どうも恋人が出来たみたいなの」

「それは良いことじゃあない。好きな人に振り向いてもらう為、努力しているのよ。私たちだって、そんな胸がキューンとするような時って、あったでしょう」

 皆、奈々に恋人が出来たらしいことを、大人に向かって成長しているのだと、前向きに考えてくれたが、同じような娘を持つ北条節子は、私の憂慮が分かると言った。『サクランボ会』の新年会は、こんなとりとめのない会話で夜の九時前に終了した。私は新宿駅で皆と別れ、新宿駅から江の島行き急行に乗った。新百合ヶ丘駅で下車し、夜道を駅から自宅まで歩いた。見上げる夜空には北斗七星が輝いていた。



        〇

 新年になって初めての東西合同の販売会議の日がやって来た。私は朝から落ち着かなかった。英子夫人を実家に帰して、娘の美輪と二人で暮らす大阪での生活が、どんなものであるか、渡辺次長に早く訊きたかった。しかし、こんな思いを社内の人に気づかれてはならなかった。私と渡辺次長との関係は、誰にも知られてはならないことだった。私は終業時間になると、今日は用事があるので、定時に帰らせていただくと井上陽子に伝え、事務所を出た。新宿に着いてからデパートの婦人服を眺めたが、高価で気に入った物が無く、書店に移動し、立ち読みした後、喫茶店『ラパス』に入り、渡辺次長が現れるのを待った。彼は何時もと同じ七時半に店に入って来た。私は直ぐに立ち上がり、コーヒー代を支払い、彼と一緒に店を出た。それから居酒屋『隠れ家』に行き、食事をしながら、いろんなことを話した。

「妻の英子は実家に戻り、少しずつ精神的落着きを取り戻して来ているが、突然、錯乱することがあるらしい。俺と美輪に逃げられたと思ったりして、死にたいなんて口にすることもあるらしい。だから今夜は目黒に泊らないといけないんだ」

「大変だわね。今まで、人の羨む平穏な温かい家庭だったのに、会社の都合で転勤になって、家族がバラバラにされて、気の毒だわ」

「今まで他人が転勤するのを栄転だなんて言って、羨ましく思ったりしたけど、現実は、そんな甘いもんじゃあないと、自分で転勤してみて初めて分かったよ」

「そういうものかもね」

 渡辺次長は大阪での業績を上げ、社内では信頼と尊敬を集めていたが、個人的には、とても悩んでいた。

「俺がこうして東京へ出張している間、娘の美輪は大阪のマンションで、たった一人だ。とても心細い思いをしているに違いない。三月になったら東京で妻と二人の生活をさせる計画で、事を進めているよ」

 渡辺次長は大阪で一人の生活を始めることを覚悟している風情だった。私は会社の為に、家庭が変形して行く渡辺次長の家族の事を気の毒に思った。私はそんな渡辺次長に同情した。そして『隠れ家』を出てから、ラブホテル『ジョージ』に行き、当然のように彼に抱かれた。彼の行為は優しく始まり、私の身体中を隈なく愛撫した。私は、その心地良さにゆっくりと燃え、女の奥の深さを知っていただこうと夢中になって応えた。私たちは結合する快楽を味わうと、とめどなく相手を欲した。彼の私への愛は堰を切ったように溢れ出た。それを受け入れると、私の身体は、恍惚に満たされ、自分の身体が自分のものでなくなるような神秘的心地良さに襲われた。その愛の浸潤は、私の中で太い根を張った。ああっ、たまらない。私は茫然自失、極致に達し、失神した。まるで空中散歩しているみたいだった。渡辺次長は精力を使い果たし、私の上からころげ落ちると、心、ここに在らぬ様子でベットの上に大の字になって、大きく息を吐いた。その後、彼は突然、起き上がった。

「ああっ、一晩中、こうしていたいが、今夜は妻のいる目黒の家に行かなければならないんだ」

「ああっ、そうでしたわね。急がないと・・・」

 私たちは慌てて、シャワーを浴び、服装を整え、『ジョージ』を出た。歌舞伎町の夜は、来た時よりも更に輝きを増し、まさに不夜城であることを誇示していた。私はJRの改札口で渡辺次長と別れ、小田急線の急行電車に乗った。吊革につかまりながら、渡辺次長は目黒の家で、ダブルヘッダーに挑むのだろうかなどと、余計な事を考えたりした。



        〇

 あっという間に立春。長い寒さに耐えて来た梅の花が紅白ともに芳香を放って開花した。私は土曜日なので、ゆっくり起きようかと思っていたのに、夫、哲郎がゴルフに行くというので、早起きして彼を送り出した。家の駐車場からマイカーを運転して出て行く哲郎は、とても嬉しそうだった。多分、あの派手な服装をした田島玲子とゴルフを楽しむのであろう。

「行ってらっしゃい」

 私が声をかけると、哲郎は子供みたいな笑顔を見せ、片手を振り、自信満々の態度で、車をスタートさせ出て行った。私は折角の休日を恋人と過ごす夫に、不満も嫉妬も抱かなくなっていた。私たちは最早、お互いに、相手に、そういう感情を抱く程、相手のことを、重要視していなかった。私にとって、渡辺次長の方が、私の胸をときめかせてくれた。このことは哲郎も同じなのかも知れなかった。田島玲子という女は、私より若く、背が高く、背筋もすっと伸びて、スタイルが良く、派手な化粧と服装が好きで、女の色香を遺憾なく発揮していた。そんな彼女に哲郎が夢中になっても、仕方ないと思った。もし私が渡辺次長と親密な関係になっていなかったら、多分、私は哲郎の浮気を許せないでいたに違いない。私は哲郎を見送ってから、これからスポーツの練習に出かける奈々と孝太と朝食を済ませて、二人を送り出した。その後、一人になってCDの音楽を聴きながら、洗濯や部屋掃除をした。洗濯機や掃除機の音で、音楽は聴きづらかったが、一人で明るい家の中にいると、ルンルン気分になった。昼食は簡単なお茶漬で済ませ、午後になって買い物に出かけた。哲郎が家にいる時は、遠くのスーパーマーケットまで車で行くのだが、今日は哲郎がいないので、駅へ行く途中のスーパーマーケットへ歩いて出かけた。そして、『小田急OX』万福寺店で食料品を買った。その買い物の最中、近所に住む望月良子と出会った。彼女はニッコリ微笑みながら、声をかけて来た。

「お一人で、お買い物ですか?」

「ええ。皆、出かけちゃって」

「もう直ぐ春ですね。奈々ちゃんも、うちの香穂と同じで、高校三年生になるのね」

「早いわよね」

 私たちは同じ小学校に娘たちを通わせていた時代を回想していた。父兄会や運動会で、顔を合わせることが多かったが、今ではそれも少なくなった。

「ところで、ちょっと言いにくいことだけど、お話した方が良いかしら」

「何でしょう」

「少し気になったので、奥さんに、お伝えしますわ。奈々ちゃんのこと」

「奈々が何か」

「偶然、新宿駅の東口で見かけたの。初めは奈々ちゃん、化粧していたし、可愛い服装をしていたので、奈々ちゃんだって分からなかったわ。でも何処かで見たことがあるかなと思っていたら、御主人くらいの男性がやって来て、早川君て、奈々ちゃんのことを呼んだの。そして二人で手を取り合って歌舞伎町の方へ去って行ったわ」

「まあ。人違いじゃありませんか」

 私は望月良子の言葉に驚いた。奈々が中年の男と付き合っているなんて、信じられ無かった。

「あれは確かに奈々ちゃんです。ごめんなさいね。お伝えしておいた方が良いんじゃあないかと思って」

「御親切に有難う御座います。奈々に確認します」

「では失礼します」

 望月良子は私に頭を下げると、惣菜売場の方へ移動して行った。私は奈々のことで、頭がいっぱいになった。私の知らない所で、奈々は何をしているのか。哲郎と同じくらいの男性とは、誰なのか。私には全く想像出来ないことであった。



        〇

 季節は日々、春へと向かって行った。そんな或る日の昼食前、一階受付の女子社員から電話が入った。

「受付に渡辺さんという女性の方が、お会いしたいと、お見えです。如何、されますか?」

 私は高校時代の親友、渡辺美雪が尋ねて来たのだと理解し、受付に降りて行くと答えた。そして井上陽子に言った。

「お昼休みに友達が尋ねて来たので、先に食事に行くわね」

「分かりました。行ってらっしゃい」

 私はお財布を持って一階に降りた。私は相手を見て驚いた。そこに立っていたのは渡辺美雪では無かった。相手は渡辺次長の妻、英子だった。以前、会社主催の展示会の時、会ったことがあるので、直ぐに分かった。

「こんにちわ」

「お久しぶりです」

「突然、済みません。近くに来たものですから、早川さんに、お会いしたくなって、来ちゃったの」

「まあっ、嬉しい。外で食事をしながら、お話しましょう」

 私は本社ビルの中から、彼女を直ぐに連れ出さなければならないと思った。何故、彼女が私に会いに来たのか、その目的を推測することが出来た。彼女の夫と不倫をしている私には、彼女が会社に来たことを、他の社員に知られてはならないような気がした。一階の受付の女子社員は入社して、一、二年なので、彼女が何処の誰であるか、知る筈も無かった。私は急いで英子を本社ビルの外に連れ出し、会社から遠く離れた大栄通りのレストラン『カミーヤ』で食事をしながら話すことにした。レストランに入り、まずはパスタランチを註文し、それをゆっくりいただきながら話した。彼女の方から先に近況を語った。彼女は大阪から戻って来て、やがて娘の美輪も東京の高校に復帰することに決まったと話した。既に知らされている情報であったが、私の胸騒ぎは止まらなかった。何故なら、その後、彼女は私に予期せぬ質問をして来ることが分かっていたからだ。

「早川さん。新宿の『隠れ家』という居酒屋、御存じでしょう。この間、主人が実家に来た時、このレシート落として行ったの。それを私の母が拾ったの」

 英子は食事途中なのに、『隠れ家』のレシートをテーブルの上に置いた。それは私と渡辺次長が食事をした時のレシートだったので、びっくりした。

「このレシートの精算時刻八時四十分でしょう。なのに、この日、帰って来たの十一時よ。この店を出てから、何処に立ち寄ったのかしら?」

「さあ、渡辺次長は、お酒が好きですから・・・」

「私、このレシートと主人の写真を持って、この店に行ったのよ。そしたら、その写真に一緒に写っている会社の人たちの中の早川さんが一緒だったっていうの。本当に一緒でしたの?」

「はい。この日は販売会議の日で、会議が終わってから本社の内情を教えて欲しいとお願いされて、御馳走になりました。私は社内の業績や人事、役員の動向などについて、分かる範囲でお話しました。その後、渡辺次長はJRの改札口へ、私は小田急線の改札口へ行き、家に帰りました。渡辺次長はその後、目黒に行くと言って、真直ぐに帰りましたけど、そんなに遅い帰りだったのですか?」

「そうなの。ですから私は、居酒屋を出た後も、早川さんが一緒だったのじゃあないかと思いまして」

「私には、そんな暇はありませんわ。私の主人は門限にうるさいの。多分、渡辺次長は、英子さんの実家での居心地が悪いのじゃあないかしら。だからその後、目黒駅前あたりの飲み屋さんに寄り道して・・・」

 そこで会話は終わった。私が動揺しているのに気付いて、英子は本件に関する会話を終わらせたのかも知れなかった。

「御免なさいね。今日は突然、尋ねたりして、大事な昼休み時間をつぶしてしまって、失礼な質問をしたりして」

「いいえ。こちらこそ。英子さんのお元気な姿を見て、安心しました」

 私は、そう言って精算を済ませ、『カミヤ』を出て、地下鉄の入口で英子に頭を下げて別れた。その後、私は一日の仕事が終了してから、渡辺次長に電話し、今日の出来事を報告した。



        〇

 一週間後の午後、突然、渡辺次長から連絡が入り、東京駅で会いたいと言って来た。販売会議ではないのに、東京に来ているとは、どういうことか。私は定時に会社を出て、快速電車に乗り、東京駅へ行った。渡辺次長と『銀の鈴』で合流した。渡辺次長の顔は少しひきつっていた。

「今日は時間が無いんだ。大阪へ帰らないといけないから、新横浜まで付き合ってくれるかな」

「新横浜ですか。何で新横浜が良いの?」

「少しでも会う時間を短くしたいんだ」

「良いわよ」

 私は渡辺次長が考えていることが理解出来なかったが、同意した。東京駅から新幹線に乗って、新横浜駅で下車した。新横浜で下車したのは数回だけなので、何処に何があるのか分からなかった。しかし、渡辺次長は新横浜駅周辺のことに詳しく、私を直ぐにラブホテル街に連れて行った。入ったのは横浜線のガードをくぐった所にある『サルビア』というホテルだった。部屋に入るや渡辺次長が、険しい顔をして言った。

「この間、英子と会って、随分、話したみたいだな」

「はい。突然、会社に訪ねて来たので、昼御飯を食べながら、お話しました。私たちのこと、疑っているみたいでした」

「俺と付き合っていることを白状したそうじゃあないか」

「白状だなんてしないわよ。あなたが落とした『隠れ家』のレシートを拾った英子さんが、そのレシートとあなたや私たち社員が写っている写真を持って、『隠れ家』へ行って、誰と一緒だったか、確認したのよ。お店の人、本当の事を話したから、英子さん、私に会いに来たのよ。でも付き合っているなんて、言ってないわ。本社の内情を教えて欲しいとお願いされて、食事して別れたと伝えたわ」

「英子は、その後、二人でホテルに行ったと、君が平然と言い切ったと言っていたぞ」

「そんな。そんなこと言う筈、ないじゃあない」

 私は渡辺次長の言葉に怒りが込み上げ、身が震えた。私がどうして、私たち二人の関係を白状したりするだろうか。私にも相手にも大切な家族があるのに、それを崩壊させるようなことを言う程、私は愚かな女では無い。渡辺次長は私を、そんな軽率な女と思っているのか。私が怒った顔で睨みつけると、渡辺次長はコートをハンガーに掛けたばかりの私を強く引き寄せ、優しくささやいた。

「そうか。それなら良い」

 彼は言い終わるや唇を重ねて来た。私は彼にしがみつき、彼の不安を和らげた。私たちは服を着たままベットに横になり、抱き合って、相手をまさぐり合った。相手に触れれば触れる程、悦びが広がって行く。密会によって得られる興奮は、私たちの性欲を高めた。私たちの繋がっている個所から、愛の泉が滾々と湧き上がって来て、彼の愛の剣が、互いの愛の深さを追求するかのように浮沈した。私も彼の浮沈の波に合わせ浮沈した。早すぎても駄目。遅すぎても駄目。私たちは愛に溺れ、同時に達し、酩酊状態に陥り、ときめきに満たされて果てた。何時までも、こうして結ばれていたい。しかし、時間制限いっぱいだった。私たちはやることを満足するまで完了させると、慌てて『サルビア』から出て、新横浜駅まで走った。渡辺次長は、大阪行きの超特急新幹線『のぞみ』の指定席券の時刻に、何とか駆けつけることが出来た。私は新幹線入口改札で渡辺次長を見送った。それからJRの横浜線の電車に乗って、町田に向かった。町田で哲郎と田島玲子に会うのではないかと注意したが、そのようなことは無かった。私が町田経由で自宅に帰ると、哲郎は子供たちと一緒に、夕食を終えて、テレビを観ていた。



        〇

 私と奈々が二人っきりになれたのは、孝太がサッカーの合宿で、一泊旅行に出かけた金曜日の夜だった。哲郎は会社の仲間との飲み会があるから、夕御飯は要らないというので、奈々と二人だけの夕食となった。哲郎の事は田島玲子と一緒だと予想出来た。従って母と娘、一対一、全くの女性同士で過ごせる時間の到来だった。焼き魚と餃子とホウレン草に御飯、みそ汁の夕食を始めると、奈々が孝太の話をした。

「孝太は今頃、仲間と温泉につかって羨ましいな。私たちも一泊旅行の合宿を企画して欲しいな」

「それは無理だと思うわ。女子高生の合宿って、親がうるさいから」

「そうなのよね。子供じゃあないのに、子供あつかいして」

 奈々は、そう言って、餃子を思いきり口に入れた。不満なのは分かるが、親の心配が分かっていない。

「親は子供あつかいしているのじゃあないの。むしろ大人と認めているから、心配するのよ。大切な娘に何かあっては困るって」

「何かって?」

「何かって分かっているでしょう」

 私が奈々を睨みつけると、彼女はドキッとした顔をした。私の言っていることが分からぬ訳は無かった。思春期の女子高生なら、充分、理解出来ていることだった。私は焼き魚の骨を取り終えてから、奈々に言った。

「そういえば、この前、望月さんの奥さんとOXで会ったんだけど、、奈々を新宿で見かけたって言っていたわ。中年の男の人と一緒だったって。その男の人って誰なの?」

 私の不意の質問に、奈々は慌てた。目を逸らそうとしたが、私が見詰めるので、彼女には逃げようが無かった。

「ああ、きっと、あの時だわ。テニスの関根先生が遅刻した私を迎えに来てくれた時のことよ」

「あなたが遅刻?」

「そう。テニスクラブの仲間と『テニスの王子様』という映画を文化センターに観に行った時・・・」

「何故、遅刻なんかしたの?」

「他の高校の人たちも参加するので、オシャレしてて、遅れちゃったの。関根先生や皆に迷惑かけちゃったわ」

 奈々の最初の慌てようは何時の間にか、どこかへ行ってしまい、かえって平然と思い出し笑いに変わっていた。私は念押しした。

「本当にテニスの仲間と一緒だったのね」

「そうよ」 

 奈々は、ちょっと膨れ面をした。私が疑っていると思ったのでしょう。何を思ってか、急に逆襲して来た。

「お母さん。私のことより、お父さんのこと心配した方が良いんじゃあないの。お父さん、この前、家に来た田島さんとかいう女の人と浮気しているみたいよ。杉浦君が、町田で二人がホテルから出て来るの見たんだって」

「何、言っているの。お父さんは、そんなことする人じゃあないわ」

「杉浦君が町田の『ヨドバシカメラ』にパソコンの部品を買いに行った時、見たんだって」

「本当なの、それ」

 私には周知のことであったが、びっくりした顔をした。奈々は杉浦弘樹からの話を聞いて、いろいろと考えをめぐらせていたらしい。

「お父さん。あの女に夢中になっているのじゃあないの。お母さんを裏切って、浮気するなんて、ひどいわ」

「田島さんて美人だから。でも直ぐに振られるわよ」

「駄目よ。そんな考えしてたら。油断大敵よ。ちゃんと妻としての務めを果たしていないと・・・」

 私は奈々にどう返答すれば良いのか戸惑った。奈々は確実に成長していた。彼女は私たちが離婚したら、どちらについて行こうかなどと考えているのかも知れなかった。



        〇

 二月の販売会議は月末の金曜日に行われた。私と渡辺次長は、昼食前、人に気づかれぬよう、終業後の約束をした。新宿へ行くと、彼の妻、英子に見つかりそうなので、今夜は渋谷で会うことにした。私は定時に仕事を終わらせると、アパレル事業部の青山紀子、保田光代と一緒に地下鉄の改札口に行き、南北線で帰る二人と別れ、丸の内線に乗った。四谷から赤坂見付けまで行き、そこから銀座線に乗り換え、渋谷に出た。そして彼の指定した道玄坂の喫茶店『キーフェル』に行き、彼が来るのを待った。二階の窓から見える渋谷の繁華街は、新宿に負けず劣らず、賑やかだったが、若者が多い感じだった。『キーヘル』は何故か高級感のある喫茶店で、紳士淑女が多く、彼に早く来て欲しかった。その渡辺次長が道玄坂に姿を現したのは七時半前だった。彼が道路の下から二階を見上げているのを二階の窓から見下ろしている自分が、可笑しかった。彼は店に入って来ると、直ぐに私を見つけて、私の前の椅子に座った。

「アメリカン」

 彼はコーヒーを註文すると溜息をついた。今日の販売会議で、何か問題でもあったのか気になった。

「どうかしたの。元気ないみたい」

「参っちゃったよ。来期から九州の支援を命じられた。大阪だけでも大変なのに・・・」

「それは大変だわね。大丈夫なの?」

「単身赴任になるから何とかやれるだらう」

 彼はアメリカンコーヒーを口にしながら、私の顔を見て笑った。そして一息ついて、私たちは喫茶店を出て、ホテル街へ足を運んだ。『ロマン』という名のラブ・ホテルが坂の石段の上にあるのが目に入った。私たちは、そのホテル名に誘われ、『ロマン』の入り口のドアをくぐり、タッチパネルで403号室を選択して、部屋に入った。部屋に入り、直ぐにシャワーを浴び、ベットの上で何時もの行為に入ると、彼は私のつるつるした肌の滑りや唇の色や髪の毛の柔らかさを確かめ、秘密によってしか得られない性欲をぶつけて来た。その強く、固く、深く、攻めて来るものに、男女の綾がからんで、私は乱れた。彼との行為に集中すればする程、意識が高まり、自分の身体が自分のもので無くなるような陶酔状態に陥った。愛されているという幸福感は不倫という罪悪感との葛藤を乗り越え、私を歓喜へと導いた。私が彼の腰を強く引き寄せると、彼は私の中に、貯めていた情欲の塊りを一気に注いだ。ひだの奥の奥まで愛が届いて来るのが分かった。それに応じて、私もこらえていた愛を氾濫させた。私たちは総てのものを伝播すると、死んだように目を閉じた。私と同じように渡辺次長の心臓が高鳴っているのが、握り合った手から伝わって来た。その心臓の動悸が鎮まってから、渡辺次長が裸のまま天井を見上げて、ぽつりと言った。

「英子は君と俺のことを、娘にも喋ったらしい。美輪が泣き喚いて俺のことを責めたが、俺は否定した。あの二人は最早、俺を信用していない」

「そうですか。冷静になって考えれば、私たちの裸の付き合いは禁じられたことだから、お互いが他人を傷つけず、自分たちが傷つかないうちに止めにしないといけないのかもね」

「そうだな。別れの時が近づいているのかもな。寂しいことだが・・・」

 渡辺次長の言葉に、私はもう一度、抱いて欲しいと思った。しかし、それは空しい期待だった。私が求めようとしても、彼は茫然としているだけで何もしなかった。別れの予感が私をとりとめもない愁いに誘ってやまなかった。



        〇

 三月の第一金曜日、出社してから一時間程してのことだった。私が会社のパソコンに向かってデーター整理をしていると、外線の電話が鳴った。客先からの電話だと思って受話器を取ると、相手は渡辺次長の妻、英子だった。

「お早う御座います。渡辺の妻です。何時ぞやは失礼しました。今日、また、お会いしたいのですが、十二時過ぎ、この前のレストラン『カミーヤ』で、いかがでしょうか」

「承知しました。お伺いします」

 私は慌てふためくこと無く同意した。昼食時刻前私は井上陽子に、学生時代の友達とランチするからと伝えて、大栄通りへ向かった。レストラン『カーミヤ』へ行くと、窓辺の席に英子と一緒に奈々と同じくらいの小柄な可愛い女の子が私を待っていた。私に気づくと二人は立ち上がって挨拶した。

「今日は突然、申し訳ありません」

「いいえ。どうぞ、御座りになって。こちらはお嬢さん?」

「はい。娘の美輪です」

 学生服を着た美輪は、母親の脇に座り、しっかりと胸を張り、自分の名を名乗った。私たちは、この前と同じ、パスタランチを註文し、それをいただきながら、ポツリポツリと話を始めた。私は何とも言えない居心地の悪さを感じ、前回、美味しかったランチも、スムースに口に入らなかった。

「美輪ちゃんは、もう春休みになったのかしら」

「いいえ。まだです。東京の高校に戻ることになったので、転校手続きと引っ越し準備に来ました」

「それは、いろいろと大変ね」

「大変なのは、そんなことではありません」

 美輪はナイフとフオークを握り締め、私をジロッと見た。鋭い目つきだった。私は緊張した。この場から逃げ出したかった。娘の強い口調に英子は慌てた。

「そんな言い方、早川さんに失礼よ」

「だって、この人、パパを狂わせた人でしょう」

 美輪の口から、はっきりと私を敵視した言葉が飛び出して来た。思いもよらなかったことでは無かったが、いざ、その矢が放たれ、私に突き刺さると、私は傷つき、身動き出来なくなった。英子と私の目が合った。ほんのわずかな瞬間だったが、私は息が出来なかった。食事を止めた私を見て、英子が娘を叱った。

「何を言っているの。パパが悪いのよ。うちのパパが・・・」

「でも、この人がいなければ、パパは大阪に飛ばされなかったのでしょう」

 美輪は燃えるような目で、私を睨みつけた。何か誤解しているようであった。まるで父親が、私との事で大阪に飛ばされたような言い方だった。美輪の怒りは良くわかるが、その怒りの理由を受け入れる訳には、いかなかった。

「美輪ちゃん。あなたは私とお父さんのことで、お父さんが大阪に飛ばされたと思っているの。それは大間違いよ。あなたのお父さんは、仕事熱心で優秀だから、『極東物産』のエリートとして、次長に昇格し、大阪支店に派遣されたの。お父さんの活躍で、今まで低迷していた大阪支店は、東京本社と並ぶほどの業績を上げ始めているのよ。それを飛ばされただなんて、渡辺次長が、余りにも可哀想すぎます。お父さんを尊敬して上げて。お願い。お父さんは美輪ちゃんたちの為に一生懸命働いているのよ」

 私の声は涙声になっていた。家族の為に奮闘し、会社の中でも中心的な役目を果たし、努力しているのに、本社から追放されたような妻や娘の評価に、私は抑えていた感情を堪えきれなかった。しかし、美輪は私の言葉など聞き入れなかった。

「いいから、私のパパと別れて下さい」

 彼女のきっぱりした言葉に、私は恐怖を覚えた。その後、食事を終え、レストランを出るまで、美輪は私と口を利かなかった。



        〇

 二日後、販売会議でも無いのに、大阪支店の渡辺次長が本社に現れた。中西部長と打合わせでもするのかと思っていると、中西部長に軽く挨拶しただけで、直ぐに総務部に向かった。気のせいか、何時も明朗な顔が蒼ざめ、緊張しているように見えた。

「渡辺次長、元気無いわね。少し痩せたみたい」

 井上陽子が、そう言って首を傾げた。そう言われてみれば、総務部へ向かって行った彼の後ろ姿が、何となく何時もより小さく見えた。

「大阪で大きなクレームでもかかえたんじゃあないの」

 森山大吾が口を挟んだ。無責任な発言だった。それに加えるように宮下課長が、小さな声で囁いた。

「いや、来期から九州営業所を統括することになって、緊張しているんだよ」

 私には宮下課長の言うことの方が、当たっていると思われた。ところが私たちの予想は全くの誤りだった。そのことは昼休みに分かった。外での昼食時に、総務部の佐伯舞が社内の秘密を青木紀子と井上陽子と私の三人に、漏洩したのだ。その内容は渡辺次長が退職願を提出したということだった。

「まあ、何で渡辺次長が辞めるなんて」

「退職願を提出され、岩崎部長も森山常務も慌てて、菊池社長に直ぐに報告に行ったわ。辞められては困るって」

「当然でしょう。大阪の業績を本社並みに引き上げたのですから」

 渡辺次長の功績は、全社員の知るところであった。病気らしい病気もせず、無遅刻無欠勤。お客の接待などで、夜遅くなっても、次の日には新しい仕事に、自信をもって挑戦する企業戦士であり、渡辺次長は社員の鏡であった。その情熱が認められ、四月から九州営業所を統括する方向に人事が進められていた矢先のことである。それなのに何故、辞めるなんいて。私たちは気が気ではなかった。佐伯舞に更に訊いた。

「それから、どうなったの?」

「私には分からないわ。午後から菊池社長と本人を交えて話し合うことになっているから、夕方には、すっきりするんじゃあないの」

「でも、どうして渡辺次長は辞める気になったのかしら。何が不満なのかしら」

「あんなに頑張っているのに、次長のままだからじゃあないの」

 女子社員たちの想像は、あれやこれや、その推測に限りが無かった。私には何となく分かっていた。もともと妻が大阪での生活に馴染めず、ノイローゼ気味になっていたところ、渡辺次長の浮気が発覚して、彼の妻、英子が錯乱し、手に負えない状態になっているのだ。東京本社に勤務していた時は、可愛い娘、美輪中心の生活で、明るい夫婦生活を過ごしていたが、大阪へ転勤となり、妻がノイローゼになっているというのに、渡辺次長は仕事大優先の生活を変えることが出来ず、妻の不満が爆発してしまったのだ。彼の妻、英子は、浮気相手の私と自分を較べようと、娘の美輪まで連れて来て、比較させた。

「何で私だけが、こんな酷い目にあわなければならないの」

 そんな情緒不安定な母親をかかえ、美輪は父親を許せず、父親に食ってかかったに違いない。美輪から攻撃された渡辺次長は、この時になって、今まで平穏であったごく普通の家庭が、崩壊寸前であることに気づいたに違いない。自責の念と格闘しながら、どのようにすれば、この危機から救われるのか、熟考したに違いない。そして家族愛を優先し、過去と決別することを決めたのだ。私は午後から渡辺次長が、どうなるのか心配でならなかった。



        〇

 渡辺次長が自己都合で会社を辞めると知ったのは三月中旬の昼休みだった。私たちは昼食時に、そのことを総務部の佐伯舞から教えてもらった。青木紀子、井上陽子も一緒だった。

「渡辺次長が辞めること、正式に決まったわよ。どうしてなのか、全く分からないわ」

「それって本当のことなの?」

「本当よ。岩崎部長から安倍課長に渡辺次長が三月いっぱいで辞めるので、四月からの人事の変更について再検討するよう指示があったわ」

「引き止めることは出来なかったの」

 私は思わず人事権の無い佐伯舞に迫った。私の真剣な顔を見て、彼女は目を丸くした。

「菊池社長が、渡辺次長を部長に昇格して、一年後には取締役にするからと、引き止めたらしいわ。それでも渡辺次長の決意は固く、菊池社長も諦めたらしいわ。竹内専務が元気だったら、引き止められたのかも・・」

 私は佐伯舞の説明を聞き、渡辺次長が『極東物産』にとって、どれだけ重要な人物であったかを改めて強く感じた。それは私が彼の妻や娘に語った彼の姿以上に、会社にとって大切な人物であったということであった。私は佐伯舞の言葉を聞いて大ショックを受けた。渡辺次長は一度、決心したら、絶対、考えを変えない性格だったから、もう諦めるより仕方ないと思った。一方で彼が会社を辞める気持ちになったのは、私に原因があったのだとも思った。あの思春期の彼の娘、美輪の言葉が蘇った。

「いいから、私のパパと別れて下さい」

 私に、ああ言い切ったくらいだから、彼女は父親の不倫を激しく罵倒し、泣き喚いたに違いない。それに対し、渡辺次長は、妻や娘を、これ以上、悲しませてはならないと決心したのだ。彼は会社よりも、家族を大切に守らなければならないと決断したのだ。何時もの昼食時間は、渡辺次長が辞める話題で終始した。昼食を終えてから事務所に戻って一時間程してのことだった。ヘルスケア事業部の中西部長から、私たちに報告があった。

「今日、総務部より、渡辺次長が会社を辞めるとの知らせがありました。家庭の事情で辞めることになったとのことです。三月いっぱいで、お別れすることになります。長年、本社のヘルスケア事業部に勤務し、大阪に転勤してからも、大阪支店を盛り上げたというのに、残念なことです。去年まで、この事業部で机を並べて仕事をした仲間なので、この事業部での送別会を考えています。送別会の日時については、宮下課長に相談してもらうことにしております。先ずは、お知らせまで」

 昼休みに佐伯舞から先に知らされていたことなので、別段、驚きはしなかったが、いよいよ事態が本格的に進行して行くのを、私にはどうすることも出来なかった。とんでもないことになってしまった。彼の家族全員が、東京に戻り、喜んでいる姿が目に浮かんだ。これで良かったのかも知れない。私は複雑な気持ちだったが、あの家族にとって、大阪での生活は無理無体な出来事だったのだ。特に神経質な英子夫人には、周囲の人たちと同調することが出来ず、精神的に疲れてしまい、情緒不安定になり、身も心もボロボロになって、夫に不信感を抱くようになったのだ。結果、渡辺次長は会社を辞める決断をしたのだ。



        〇

 三月の販売会議の日が来た。その日、私は渡辺次長とすれ違った時、小さな声で確認した。

「今日は大丈夫ですか?」

「今日は菊池社長をはじめ、幹部の人たちが送別会をしてくれるというので、何時になるか分からない。明日なら」

「分かりました。では明日」

 私は小さく頭を下げ、了解した。そして、その翌日となった。渡辺次長は夕方になって会社に姿を見せた。彼は社員一人一人に別れの挨拶をして回った。それから私たちヘルスケア事業部のメンバーと、新宿西口のレストラン『おとぼけ』へ行った。このレストランは渡辺次長の大阪転勤が決まった時、壮行会をした店だ。集まったのはヘルスケア事業部のメンバーにアパレル事業部の片山雄二、青木紀子と保田光代が特別参加し、十二人での送別会となった。壮行会の時と同じく、宮下課長が司会を務めた。

「では、これから渡辺次長の送別会を始めます。先ず、中西部長から送別のお言葉をお願いします」

 宮下課長の司会に従い、先ずは中西部長が送別会の皮切りの挨拶をした。

「この度、長年、仕事を一緒にして来た渡辺君が、御家庭の事情により、会社を辞めることになり、誠に残念な事は、申し上げるまでもありません。私と渡辺君は、入社以来、一番多く共に仕事をして来た最も親しい友達であり、個人的にはまだまだ一緒に仕事を続けたい気持ちでいっぱいです。しかしながら、本人の固い意志を無視して、無理矢理、御引止めする訳には参りません。そこで今宵は皆さんと渡辺次長との別れを惜しみながら、渡辺次長の今後の活躍を祈って乾杯したいと思います。宮下君に乾杯の音頭をお願いします」

 中西部長の挨拶に続いて宮下課長が、乾杯の音頭をとった。

「渡辺次長。長い間、御苦労様でした。渡辺次長及びお集まりの皆様の健康と将来の活躍大成を祈って、乾杯!」

 私たち十二人は送別会であるというのに、明るい気分で乾杯した。その後、一人一人、渡辺次長に、送別の言葉を送った。渡辺次長は辛く寂しい気持ちを隠し、中西部長や宮下課長、片山課長、大森係長、村上秀介、山田満男らと別れの盃を交わしながら、各人の言葉を聞いた。私たち女性五人はそんな男たちの送別の様子を眺めながら、美味しい料理を味わった。八時近くなって宮下課長が立ち上がり、渡辺次長に分かれの言葉をお願いした。渡辺次長は普段と変わらぬ親しみのある態度で謝辞を述べた。

「本日は私の為に、わざわざ送別会を開いていただき、心より厚く御礼申し上げます。私事を申し上げて恐縮ですが、今回、私が会社を辞めることになったのは、妻の病気の看病をする為です。私としては大阪支店に続き九州営業所でも、何か一つでも『極東物産』の為に残る仕事を成し遂げたいと思っていましたが、以上のような家庭の事情で、余儀なく会社を辞めることになりました。会社を辞めてからも、『極東物産』で育まれたチャレンジ精神と皆様のことは、決して忘れません。今までの皆様の御厚情に感謝申し上げると共に、今後とも皆様が『極東物産』の為に、貢献されることを願い、お別れの挨拶と致します。本当に長い間、有難う御座いました」

 渡辺次長の挨拶が終わり、しんみりしたところで、御指名により、私が送別の花束を渡辺次長に渡した。花束を受け取る渡辺次長の顔を見て、私は泣き出しそうになったが、ここで涙を見せてはならないと堪えた。人間は悲しい時、悲しい顔をするといった単純な生き物では無い。私は気を取り直し笑顔を作り、一言、言った。

「お疲れ様でした。お元気で・・・」

「ありがとう」

 渡辺次長は明るい口調で答えた。こうして渡辺次長との送別会は、八時丁度に終了した。中西部長は店から出ると渡辺次長に、最後の挨拶をした。

「じゃあ、またな」

「うん。また」

 渡辺次長は宮下課長と片山課長を連れて地下鉄丸ノ内線方面へ引き上げて行く、中西部長を見送った。そして、皆に手を振り、西武新宿線の方へと消えた。その後、残った井上陽子、森山大吾たち独身者は、近くの居酒屋で二次会をすると言って、西新宿方面に向かった。



        〇

 送別会を終えてから、私は小田急線に乗る振りをして、若い仲間と別れると、以前、渡辺次長と行った事のある歌舞伎町のカウンターバー『メリー』に行った。店には既に渡辺次長が来ていて、一番奥の片隅で、ウイスキーを飲んで私を待っていた。

「あらっ、私より早かったのね」

「うん。花束持って歩くの恥ずかしいので、急ぎ足で来たから」

「そう。それにしても、会社を辞めるなんて、びっくりだわ」

「そうだろうな。詳しい事は後で話すよ。飲み物は何にする?」

「同じので良いわ」

 私は渡辺次長に合わせて、ウイスキーの水割りを飲んだ。『メリー』のママは、渡辺次長が渡した花束を解いて、花瓶に飾った。

「二日も続けて花を持ち帰るのは面倒だから、この店に飾ってもらうことにしたよ」

「ナベさん。戴いちゃって、いいんですかね?」

 マスターが私におつまみを出しながら心配そうな顔をした。今となっては良いも悪いも無い。ママはもう笑顔で、飾り棚に花を飾って眺めている。

「マスター、心配いらないわ。本人が、それが最良と判断したのですから、それが一番良いのよ」

 私と井上陽子の二人で組合せを考えて花屋さんに作ってもらった花束なのに、そう答えるしか仕方なかった。『メリー』で、ママやマスターとお喋りした後、私たちは何時ものラブ・ホテル『ジョージ』へ行った。二人が初めて結ばれたのは、渡辺次長の大阪転勤が決まった時の壮行会の夜だった。壮行会が終わった後、立ち寄ったのが、この『メリー』だった。家に帰らなければいけないと思いながら、東京から離れることになった彼にキッスされ、私の理性は崩れ落ち、不倫という初めての体験に戸惑いながら、その深みにはまってしまったのだ。部屋に入ってから、そんな過去を振り返りながら、私は渡辺次長に抱かれた。彼の愛撫を受けると、これが最後になるのではないかという感情に押し流され、私の身体は燃えた。私は彼にしがみつき、彼の唇や指先や、肌のすべりや、厚い胸などを、決して忘れないように、その総てを身体に覚え込ませようと必死になって密着した。彼もまた自分の記憶を私の中に深くとどめておこうと、奥深くまで侵入して来た。火のように燃えた侵入しようとする攻撃の繰り返しは激しかった。その攻撃のリズムをひとたび身体が覚え込むと、そのリズムが快感へと転じた。私はこれが最後と心の中で呟きながら、彼と共に絶頂に達した。そして静寂の時を経て、彼がぽつりと言った。

「実は英子が目黒の家で睡眠薬を多量に飲んで、自殺しようとしたんだ。未遂に終わったが、ほっといたらまた同じことを繰り返し、死んでしまう。俺は夫として、彼女を見捨てる訳にはいかない。親として美輪も守ってやらなければならない。その為には、会社を辞めるのが一番だと判断したんだ」

「それだったら、本社に戻して貰えば良かったじゃあない」

「そうはいかない。英子は本社に勤める君のことが頭から離れない。また睡眠薬を飲もうとするだろう。そしたら、俺は会社を休むことになる。結果は、会社の片隅に追いやられるだけだ」

「でも・・・」

「人には転機がある。別の所に自分らしい生きる道がある筈だ。総てを捨てて、俺は新しい道に踏み出すことにしたんだ」

 彼は悲し気な潤んだ眼差しを私に向けながら、男らしさを強調しようとしていた。私は彼が可哀想になり、まだドキドキしている彼の胸に手をやって、彼を励ました。

「分かったわ。あなたの新しい道への考え。頑張ってね」

「うん」

「後ろを見ないで生きて行ってね」

 別れの予感は、今や現実となっていた。私たちが『ジョージ』を出ると、外は雨だった。まるで私たちの愛隣の果てを慰めるような、優しく冷たい雨降りだった。



        〇

 四月最初の金曜日、私は仕事を終えて四谷から市ヶ谷まで、総武線で移動し、市ヶ谷から地下鉄で九段下へ行った。久しぶりに『サクランボ会』の仲間と合流し、花見を楽しもうということになっていた。待合せ場所の改札口に行くと、小池京子、吉村美絵、北条節子が既に来ていて、私たちを待っていた。私が到着した後、横川彩華がやって来て、総員五名で千鳥ヶ淵公園へ向かった。途中の九段坂や靖国神社の桜は、夕暮れにやって来た見物客たちに満開の様を自慢するように咲き誇り、ピンクの芳香を放っていた。夜が夕暮れを追いかけ、迫って来ていて、まさに夜桜の見ごろだった。インド大使館の前を通り、御濠端の道を、私たちは桜並木に沿って歩いた。花の金曜日とあって、沢山の花見客たちがごった返し、外人客も結構、多かった。また並木道の桜の木の下の花壇では、シャガの花が、桜と競うように白地に青い斑点をつけた花びらと黄色い花を、いっぱい咲かせ、夜なのに、人目を集めていた。見下ろす御濠の水上ではボートに乗り、灯りを点けて、桜を眺めている人たちもいた。私たちは戦没者慰霊公園の手前まで夜桜見物をしてから引き返して、田安門へ行き、北の丸公園入口で夜桜が乱舞するのを眺めた。その後、私たちは飯田橋まで歩き、駅近くの居酒屋『庄屋』へ入った。ビールで乾杯してから、いろんな料理を食べながら、女子大時代の昔話に花を咲かせた。それが終わると、近況報告になった。横川彩華は、まだ貿易会社の老紳士と付き合っているという。北条節子は、夫の区役所内の女性との浮気が続いていて困っているという。

「私も勤めている病院に、親切にしてくれる人がいるので、その人と恋に落ちそうなの」

「まあっ、節ちゃんが、そんな気になるなんて、驚きね」

「今迄、じっと我慢してやり過ごして来たけど、今ではすっかり、夫への気持ちが冷めちゃって・・・」

「でも、不倫するなら、その一時の燃え上がりだけでなく、それが終わってからも、その傷が癒えないことを、覚悟しておかなければ駄目よ」

 京子の節子への忠告を耳にして、私は胸に秘めた悩みが増幅するのを覚えた。不動産会社に勤めている吉村美絵は、不倫をする人たちが、マンションを借りたりして、失敗するのを、沢山、見て来ているので、京子と同感だと言った。

「京子の言う通りよ。不倫は危険よ。しない方が賢明よ。恋をしなければ、深く傷つくことは無いのだから」

「そうよね。私もそう思うわ」

 私は京子や美絵に同調した。そして自分の事を質問されると、私は平和な日常を過ごす為に、夫の浮気には目をつぶり、娘の行動について優しく見守っていると話した。京子は京子で、また旦那が姿を消したと話した。

「うちの夫は野良犬と同じで、他所をうろつき回るのが好きなの。他所の女に厭きると、また戻って来るの。可愛いところがあるから、放ったらかしにしておくの」

 京子は、そう言うが、何処か男を信じていないような寂しげなところがあった。多分、以前に付き合った男たちの誰かに、手ひどく傷つけられた体験があるからに違いなかった。何となく寂しさを隠しているような雰囲気が感じられた。集まった仲間は、それぞれに女たちの季節を過ごしていた。『サクランボ会』は夜九時半に解散になった。私は飯田橋から新宿に出て、仲間と別れ、新宿から小田急線の電車に乗り、一人になると、胸にポッカリと穴が開いたような虚しさを感じた。渡辺次長との関係は、今やもう過去になってしまい、二度と戻って来ないことになってしまっていた。



        〇

 毎年、春は廻って来るが、今年の春は、何故か何時もと違っていた。春なのに私は、遣る瀬無い気持で、心が虚ろだった。人には何故、別れがあるのか。渡辺次長が、会社や私の所為で、私たちの前から消え去って行ったのだと思うと、出勤して机に座って仕事をしていても、陰鬱な気持ちが、どんどん膨らんで来て、潰れてしまいそうになった。こんな時、自分はどのようにして、この春霞のような陰鬱な気持ちを、払い除ければ良いのか。恋をしなければ、傷つくことは無いと、吉村美絵が言っていたが、肉体に宿る女性本能の炎は、そんな我慢で治まるものなのか。過去を忘れてしまえば良いという理屈は分かるが、何もかも無くなってしまった切なさは、私をいたたまれない気持ちに追い込んだ。そんな気持ちでいる時に、外線から電話がかかって来た。

「こんにちは。この前、お会いした渡辺美輪です。今日、近くまで来ています。この前のレストランで、ランチを一緒にしたいのですが、良いですか?」

 私は突然のことなので、びっくりしたが、断る理由が無かった。直ぐに小さな声で、彼女に返事した。

「いいわよ」

「突然、ごめんなさい」

「大丈夫よ。先に行ってて」

「はい」

 彼女は明るい声で答えると、直ぐに電話を切った。私は不安に追い込まれた。また、あの親子と対面するのかと思うと、憂鬱な気分になった。正午、私は青木紀子と井上陽子たちに、友達とランチするからと断り、大栄通りの『カーミヤ』へ行った。通りから入ったちょっとした石段の上にあるレストランの窓辺の席に座り、小柄な美輪が、たった一人で待っていた。私が一緒だと思っていた母親の英子は、そこに居なかった。トイレにでも行っているのか。

「お待たせ。お母さんは?」

「私、一人です」

「そうなの。注文は?」

「まだです」

「この前と同じ、パスタランチで良いかしら?」

 私は彼女が一人であるのを知ると、にっこり笑いかけ、メニューを確認した。綺麗な可愛い顔立ちをした美輪は、私の確認に同意した。昼時なので、店内には客が多く、騒がしかった。私たちは、そんなレストランの窓辺の席で、ランチをいただきながら会話した。

「この前は、ごめんなさい。ママが弱気だから、私、ひどいこと言っちゃって」

「いいのよ。はっきり言って貰って、お母さんや美輪ちゃんの気持、分かったから。私も、すっきりしたわ」

 私は、あの日、美輪がカッとなって吐き出した言葉を思い出した。だが今日の美輪は、あの日と別人だった。

「早川さんて、優しいのね。パパが好きになったのが分かるわ」

「そんな」

「でも、もうそんな心配すること無いわ。パパは会社を辞めて、新しい会社に就職が決まったから、もう二度と早川さんの前に現れることは無いと思うわ」

「そうでしょうね。渡辺次長は家族最優先の人ですから、良かったわね」

「はい。お陰様で、ママも精神的に安定し、以前勤めていた会社で、働けそうです」

 彼女は、そう言って明るく笑った。私たちはランチを食べ終えてからコーヒーを飲んだ。彼女はコーヒーを美味しそうに一口、口にしてから、私をじっと見つめて、また言った。

「私、もう大人です。パパと別れてくれてありがとう。ランチ代、私が払います」

 私は慌てた。美輪が手にした明細伝票を奪い取り、会計を済ませた。そして店のテラス席の脇の石段を降り、『カーミヤ』を出て、通りで美輪と別れた。

「ご馳走様でした。ここで失礼します」

 美輪は、そう挨拶し、深く頭を下げると、満開に咲き誇る桜の木の下を、その花びらを受けながら、水色のコートをなびかせ、軽やかな足どりで、スキップするようにして、駅の方へと去って行った。私は春風に頬を打たれ、その場に立ち止まったまま、呆然と彼女を見送った。これで良かったのだ。

  

          〈完〉


 


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